5分でわかる、倉敷の歴史

まず、ここに記しているのは難しい話ではなく、「旅行者が倉敷の観光をより楽しむために必要な歴史知識」だ。ゆえに「5分でわかる」程度でいい。

倉敷の歴史をネットで検索すれば、江戸時代以降のことは簡単に調べられる。だが、なぜかそれ以前の話はなかなか出てこない。通常、日本の古い町には鎌倉時代あたりからの歴史があるものなのに、なぜ?

しかも倉敷は、岡山城はもとより、戦国時代末期に羽柴秀吉が「水攻め」で攻略した、あの備中高松城からもそう遠い場所にあるわけではない。

実は、昔の倉敷一帯は「海底」だったのだ。なるほど~!(笑)

陸続きになったのは平安時代の初期といわれているが、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟で人が住めるところではなかったようだ。

そんな倉敷を変えたのが、当時の岡山城主で羽柴秀吉に仕えていた宇喜多秀家だ。秀家は堤防を築いて干潟を干拓し、それが以降の城主にも引き継がれて、倉敷の町が形成されていくことになる。

面白いのは、宇喜多秀家の干拓のヒントが、先ほど触れた羽柴秀吉の「水攻め」にあったという話。高松城攻めに参戦していた秀家が、「水攻め」とは逆に、堤防を築いて海水の流入を防ぎ、干潟を完全な陸地にしてしまうことを思いついたというのだ。

もちろん直接本人から聞いたわけではないので(笑)、大河ドラマによくある「誰かが作ったフェイクな話」かもしれないが、それはそれで現実味のあるエピソードとして面白い。筆者はその話に興味を抱き、高松城址と岡山城に足を運んでいる。

さて。ここからが、なぜ倉敷は「白壁土蔵のレトロでオシャレな町」になったのか?という話になる。

関が原の合戦で、西軍についた宇喜多秀家が所領を失った後、倉敷は徳川の備中国奉行領となり、上方への物資の輸送中継地を担うようになった。早い話が江戸幕府お抱えの「物流基地」になったわけだ。

さらに1642年に代官所が置かれ、「天領」に格上げされると、幕府の保護や周辺の豊かな産物を背景に、倉敷は物資の一大集積地へと発展し、現在の美観地区周辺はますます活気を帯びていった。

当時の倉敷川は潮の干満を利用して多くの船が航行し、川沿いにはこの時期に塗屋造りと白壁土蔵造りを中心にする町並みが形成されたという。

その経緯から、倉敷の地名は「蔵屋敷」が転じたとも、中継所として物資を保管している場所のことを「倉敷地」と呼んだことに由来するともいわれている。

かつての街道筋で、倉敷川沿いより先に町となった本町から東町へ続くこの通りは、箪笥屋、桶屋などの職人が軒を連ねていたといい、今でも格子戸のある宿や杉玉を軒に吊り下げた造り酒屋が残る。倉敷の手作り工芸品のルーツは、どうやらこのあたりにあるようだ。

しかし、明治になって「天領」という特権を失った倉敷は、米と綿の単なる集積地と化し、文明開化から取り残されてしまう。

その状況を打開すべく取り組んだのが紡績産業だ。1889年(明治22年)、代官所の跡地で赤レンガづくりの紡績工場が操業を開始。現在のクラボウによる新たな繁栄への挑戦が始まった。

倉敷紡績の工場は1973年(昭和48年)に役目を終えてリノベーションされ、現在はホテルを中心にした複合観光施設「アイビー・スクエア」として営業中。建物は2007年(平成19年)に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。

さらに時代は進み、昭和5年の大原美術館の開館とともに芽生え始めていた町並み保存活動は、途中、太平洋戦争による休眠期間を経て、昭和30年代に行政・住民主体の取り組みへと発展する。

そして1969年(昭和44年)に「倉敷川畔美観地区」が誕生。1979年(昭和54)年には「重要伝統的建物群保存地区」として国から選定を受ける。

かくして倉敷は、江戸時代の「物流都市」、明治時代の「工業都市」、そして昭和後期から現在にいたる「観光都市」の3つの「地層」を持つ、他に例を見ない町となった。

もうお気づきだと思うが、これら3つの「地層」を意図的にセレクトして見周ることができれば、倉敷の観光は断然面白いものになる。

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