薩長同盟の背景と中身を知って出向く、締結所縁之地「御花畑屋敷跡」

「薩長同盟」といえば坂本龍馬(笑)。

そう云われる所以は、当時敵対関係にあった長州藩と薩摩藩の「常識的にはあり得ない」同盟に、木戸孝允・西郷隆盛の両藩重臣と浅からぬ面識を持っていた坂本龍馬が絡み、その仲介を果たしたからに他ならない。

だが、薩長同盟そのものが持つ面白さを感じるには、まずはその坂本龍馬を抜きにして、同盟締結にいたる時代背景を理解する必要があると思う。

薩長同盟締結のきっかけは「禁門の変」にある。

別名「蛤 (はまぐり) 御門の変」とも呼ばれる政変は、幕末の1864年8月20日に長州藩と京都守護職の会津藩、及びその援護に駆けつけた薩摩藩との間で起きた、京都御所付近における戦闘である。

吉田松陰の意思を継ぎ、尊皇攘夷を掲げる急進派の長州藩は、2年前の「文久三年八月十八日の政変」と「池田屋事件」によって着せられた汚名を晴らすべく、幕府側の京都守護職追放を掲げて決起し、御所を目指して突入した。

特に蛤御門口の戦闘は激しく、長州勢は最初優位に立ったが、思わぬ薩摩藩の来襲によって押し戻され、それを契機に全面的な撤退を余儀なくされる。その結果長州藩は、存続さえも危ぶまれるほどの状況へと追い込まれていった。

だがこの時幕府は、薩摩藩への対応を誤った。

「文久三年八月十八日の政変」と「禁門の変」の功績により、事実上の「キーマン」となった薩摩藩は、これを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ移行し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制への変革を画策していた。

しかし、徳川慶喜との政局に敗れて挫折。薩摩藩はついに幕府を見切り、倒幕へと舵を切ることを決意する。

面白いのはここからだ。

まず朝敵とされた挙げ句に、武器の購入を禁止された長州藩は、今第二次長州征伐で幕府軍から攻められれば、絶体絶命の事態に陥る状況にあった。

いっぽう薩摩藩は、幕府にすれば敵に回すと厄介な存在であるとともに、「目の上のたんこぶ」になりつつあった。

そこで幕府は、薩摩藩に長州藩を攻めるよう命じる。

今度はそれを逆の立場から見てみよう。

「武器が喉から手が出るほど欲しいうえに、倒幕がしたい」長州藩と、「国力を疲弊させる無駄な戦争を避けつつ、倒幕がしたい。ただし、倒幕運動の表には立ちたくない」薩摩藩。

そりゃ、「幕府の思い通りにさせてなるものか」との思いが一致するのは必然だが、「実行犯」がいなければ実現しない。

それを見事に解決したのが、坂本龍馬率いる長崎の「亀山社中」だった。

そもそも「亀山社中」は、薩摩藩家老・小松帯刀が費用を負担してできた商社だったが、龍馬はそれを長崎の豪商たちと組んで大きくし、この時もトーマス・グラバーらの手を借りて、長崎から薩摩藩名義で武器を購入、それを長州に届けている。この実行力がなければ、木戸も西郷も龍馬を当てにはしなかったに違いない。

このことにより、長州藩は幕府軍を迎え撃つ体制を築くことができ、そこに高杉晋作率いる騎兵隊が登場したこともあいまって、「奇跡と映る勝利」を手にすることになる。だが、それは3人にすれば「シナリオ通りの結末」だったのだろう。

さて。ここまでの話だけなら、「旅」にはならない。

木戸孝允、西郷隆盛、そして坂本龍馬がいったいどこで意見をぶつけ合い、最後はどこで合意に至ったのか… その現場に佇み当時に思いを寄せてこそ「歴史探訪の旅」といえる。もちろん、それができるところは「京都」しかない。

というわけで、その会談場所と合意場所を案内しよう。

薩長同盟のための会談は、二本松の薩摩藩邸で開始されたが、薩摩側の西郷隆盛・小松帯刀と、長州側の木戸孝允(この時は木戸貫冶)との間には立場の相違があり、なかなか会議の進展が見られなかったという。

二本松の薩摩藩邸は、現在の同志社大学今出川キャンパスで、この石碑は烏丸通りに面した西門の入口に立っている。

ただし大学に駐車場はなく、ここへ行くなら京都御所の蛤御門そばにある駐車場にクルマを置いて歩いてアクセスするといい。この付近での路上駐車は難しい。

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会談はその後、藩邸から500メートルほど離れた小松屋敷に場所を移して再開され、慶応2年1月21日(1866年3月7日)ついに妥結にいたる。

石碑の向かい側には、かつて近衛家の堀川邸があり、小松帯刀は近衛家の別邸を住居としていたことから、長年薩長同盟はそこで締結されたと推定されていた。

ところが、2016年にその「定説」が覆った!

「御花畑」は近衛家の別邸だが、2016年ついその場所が判明した。木戸孝允の伝記『松菊 木戸公伝』には、「帯刀の寓居に會合し」と記されていることから、締結はこの地ということで決着。それにより、現在はひとつ上の写真の石碑は撤去されている。

なお、石碑はフランジパニ (Prangipani) というカフェの前に立っているが、残念なことに、ここも駐車場はない。頑張って御所から続けて歩こう。

フランジパニ
京都府京都市上京区室町通鞍馬口下ル森之木町462
☎075-411-2245

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さて。難航した会談の最終局面で、破談になろうかというその時に坂本龍馬が現れ、西郷隆盛をくどき、私情を捨てて国家のことを考えよと迫った逸話は有名だが、それが史実かどうかはわからない。

ただ龍馬が同盟の重要な証人となったことは確かだ。木戸孝允が会談ののちに作成した「覚え書き六箇条」には、龍馬によって朱筆の裏書きが記され、現在は宮内庁に保管されている。

最後に、その「覚え書き六箇条」の中身をご紹介。

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

要訳

第二次長州征伐(四境戦争とも呼ばれる)が迫る長州藩を、薩摩藩が全力を挙げて援護することを約束する具体的な内容が記されている。

・長州藩と幕府の戦争が始まったら、薩摩藩は京都に2000人の軍を派遣し、京都に駐留している1000人の兵と合流して京都と大阪の守りを固めること。

・長州藩が幕府との戦争に勝てそうであるなら、薩摩藩は朝廷に働きかけて幕府との講和を成立させること。

・もし長州藩が負けそうでも、半年や1年で決着がつくことはないから、持ちこたえている間に長州藩を助ける策を考えること。

・戦争が終わって幕府軍が撤退したら、薩摩藩はすぐさま朝廷に長州藩が無実である事を訴え、長州の名誉回復に尽力すること。

・もし一橋慶喜や桑名藩、会津藩が兵力を増強し、朝廷を利用して薩摩藩の行動を妨害した時は、薩摩藩も幕府に決戦を挑むこと。

・長州藩の名誉が回復された場合は、共に一致団結して天皇中心の新しい世の中を作り上げることに努力する事は言うまでもない。たとえこの先どうなっても、国と天皇の威光を回復するために行動することは決して変わらない。

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