「天下分け目」の天王山。あの合戦が行われたのは河川敷だった?

天王山と云えば、本能寺で織田信長を急襲した明智光秀と、その仇を打つべく、世にいう「中国大返し」で備中高松城から駆け戻った、羽柴秀吉による「天下分け目の合戦」で有名だ。

「天下分け目の合戦」は関ヶ原の合戦を指して云うこともあるが、時代からみれば天王山、戦の規模からみれば関ヶ原になる。ただ、プロ野球などの優勝を左右する大一番に使われるのは「天王山」で、我々の世代にはその方がしっくり来る。

さて。ちょっと気恥ずかしい話なのだが、筆者は天王山に登るまで、この山が「天下分け目の戦場」だと思っていた。

だが考えてみれば、こんな山道を両軍あわせて4万とも5万とも呼ばれる軍勢が登れるわけがないし、山中に戦ができるような広いスペースもない(笑)。

天王山にあったのは秀吉の本陣で、天下分け目の合戦は、この展望台の眼下に広がる淀川の河川敷一帯で行われていた。

ここがその古戦場跡。

筆者のような人間が多いせいか、昔は「天王山の戦い」と呼ばれてきた合戦を、今は「山崎合戦」と呼ぶらしい(笑)。

【山崎合戦の顛末】

天正10年(1582)年6月2日、本能寺で織田信長が討たれた訃報は、2日後には備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の元に届いた。秀吉は軍師の官兵衛に指示して、すぐさま毛利と和睦を結び、山陽道、西国街道を駆け抜けるように京を目指した。

いっぽう信長を討った後、京と近江を制圧した明智光秀は、予想外の秀吉の動向に驚き、急ぎ軍勢を天王山の麓へと進めた。

「天下分け目の合戦」が始まったのは、6月13日午後4時頃。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が現在の淀川河畔で激突した。だが戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わる。

明智軍は方々に逃散し、光秀は本陣背後の勝竜寺城に一時退去した後、闇に乗じて僅かな手勢とともに近江へ逃れようとしたが、桃山丘陵を越えた小栗栖(おぐるす)付近で土民の襲撃を受け、波乱万丈の生涯に終止符を打った。

合戦の後、秀吉は天王山の山頂に城を作り、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる。

以上、ご覧のみなさんも懐かしく思えるような話だったのでは(笑)。

なお、古戦場の石碑はすぐ近くの「大山崎町立大山崎中学校の正門横」にもあるようだが、見学に行くなら駐車場がある写真の「天王山夢ほたる公園」のほうがいい。古いウェブサイトは中学校前の石碑を紹介しているものが多いので、よく確認しよう。

天王山夢ほたる公園には、3台分の駐車場と公衆トイレが用意されている。ただし夜間は閉鎖されるため、車中泊はできない。

さて。そうなると、わざわざ天王山に登る意味はあるのか? という疑問がわいてくるわけだが、標高約270メートルの天王山は登山道がよく整備されており、ご年配や子供連れでも気軽にハイキングを楽しむことができる。

筆者のお勧めは、JR山崎駅からスタートして山頂までを往復するルートだ。クルマで行くならJR山崎駅のすぐ近くに写真のタイムスがあり、24時間800円で利用できる。ただしキャブコンは入庫できない。

大山崎町はこのハイキングコースを「秀吉の道」と名づけ、秀吉の天下取りの物語を解説する陶板製の案内板を設置している。

案内板の数は全部で6枚。原画は日本画家・岩井弘が描いた屏風絵図で、解説文は経済評論家の堺屋太一が書いている。

なお、途中には禁門の変(1864年)に敗れ、天王山中で自刃した長州藩の隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓がある。

会津藩、新選組等の幕府軍の追撃を受けた真木和泉以下、十七名は、仲間に長州まで落ちのびて再挙を期すように告げると、天王山に踏みとどまって殿軍(しんがり)をつとめた後、陣屋に退却し、最後は弾薬に火をかけ、全員割腹自刃して果てている。

この話は大河ドラマ「花燃ゆ」を見ていた人は記憶にあるかもしれないが、本当に痛ましい天王山での出来事はこちらだと思う。

最後に、NHKのドラマつながりのスポットをご紹介。JR山崎駅を天王山と反対方向に進むと、「マッサン」に登場したサントリーの山崎蒸溜所に出られる。その間の所要時間は10分足らず。入館は無料なので、時間があればあわせて観光するといいだろう。

また歴史好きには、長岡京跡と淀君がいた淀城跡も近くにある。こちらへはクルマで移動しよう。

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