羽柴秀吉・軍師官兵衛ゆかりの名城、備中高松城址(蛙ケ鼻築堤跡)「水攻め」の真実

秀吉軍の奇想天外な「水攻め」によって落城した備中高松城址は、岡山自動車道の岡山総社インターの近くにある。なお、高松城は香川県にもあるため、混乱を避けるためにこちらは「備中高松城」と呼ばれることが多い。

備中高松城攻めは、軍師官兵衛がその人生で最も冴えた采配を振るった戦である。沼城で難攻不落といわれた備中高松城を、広大な人造池の中に孤立させて士気を奪い、信長死去の情報を得るやいなや、僅か1日で毛利軍と和睦を結び、後世に語り継がれる「中国大返し」を敢行して、秀吉を天下人へと導いた。

戦の詳細については、あまりの長文になるためここでは割愛するが、こちらのページに詳細がうまくまとめられている。よろしければ参考に。

驚天動地 高松城水攻め – おかやま観光コンベンション協会

また、高松城水攻めのリアルな映像が見てみたいという人には、映画「のぼうの城」がお勧めだ。冒頭のシーンで、この戦を大迫力をもって描いている。

さて。備中高松城址は、城跡と云っても櫓(やぐら)や石垣が残っているわけではなく、当時を偲ばせる遺構は、城主・清水宗治の墓が自刃地にひっそりと建っている程度で、あとは近年に作られたモニュメントが目立つ。

その中の「見どころ」といえるのが白壁土蔵の資料館で、見学は無料。

休日は地元のシニアがボランテイアで解説をしてくれるが、それがこれからの周辺観光に大いに役立つ。ゆえにここには休日に出向いたほうがいい。

というのは、秀吉あるいは軍師官兵衛ゆかりの地という視点に立てば、この「城めぐり」の本当の見どころは、備中高松城址ではなく、高松城を水没させるために羽柴軍が延々3キロにわたって築いたという堤防跡になる。

その堤防跡が蛙ケ鼻築堤跡(かわずがばなちくていあと)だ。 

蛙ケ鼻へはクルマで行けなくはないが、道が狭いうえに休日は渋滞するため、高松城址から徒歩でアクセスするのがお勧めだろう。

意外だったのは、高松城址周辺がさほど「軍師官兵衛」に湧いている様子ではなかったこと。官兵衛が男を上げた古戦場だけに、さぞかし…と思っていたのだが、冷静に考えればそれは当然だった。

地元からすれば、官兵衛は「侵略者」の手先であって、名君の誉れ高き清水宗治の仇役。時代は違えど、町の中には殿様や重臣の子孫がいても不思議ではない。旅人にとって史跡は興味の対象でしかないが、住民にはそこに先祖が宿っているということを忘れてはいけないと痛感した。

水攻めの真実を確かめるため、2018年2月に再訪。

上記は大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送された2014年に足を運んた際の話だが、今回は「水攻めの真実」を確認したくてやってきた。

記録によれば、秀吉はわずか12日間で高さ7メートル、長さ3キロもの堤防を作り、東京ドーム約40個分もの巨大な人造湖を出現させたというのだが、400年も前の時代に、本当にわずか12日間で3キロもの堤防を築くことができたのか? 

実は今年の1月29日に、BS朝日の「歴天 ~日本の歴史を変えた天気~『備中高松城の水攻め』」という番組が放送され、偶然筆者はそれを見ていたのだが、その中で見事に答えが解明されていた。

確かに前回の訪問時に、なぜ築堤の遺構が「蛙ケ鼻」にしか残っていないのか?という疑問を筆者も抱いたのだが、それについても「一発回答」といえる話だった。

「水攻めの築堤」の詳細を最初に記した史料は、実際に高松城に籠って戦った中島元行が書き残した「中国兵乱記」で、そこに記された長さ26町(約2.8キロメートル)、幅9間(16.2メートル)、高さ4間(7.2メートル)という数字が、長年「定説」の根拠とされてきた。

その後、江戸時代中期の1791年(寛政3年)に、地理学者の古川古松軒が備中高松城跡と周辺地域を踏査し、築堤されたのは蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの約300メートルだったという新たな見解を示したが、日の目を見ることはなかった。

それから200年近い歳月が流れた1985年(昭和60年)6月、大雨による洪水で備中高松城址一帯が、まるで水攻めの光景を再現したかのように水没した様子が撮影された。

現在は排水ポンプの設置によって冠水しなくなっているらしく、もはや同じ光景は見られないため、歴史を証明する貴重な写真となっている。

撮影したのは、備中高松城址のすぐ脇で和菓子屋「清鏡庵」を営みながら、生涯をかけて郷土の歴史を研究されてきた林信男氏(故人)だ。

林氏は1999年11月に自費出版した237ページに及ぶ「高松城水攻の検証」の中で、「備中高松城水攻め」は、定説の1/10程度の長さの築堤があれば十分可能であったことを、地形と気候の面から検証し、同時に「水攻め」を根本から覆す事実を発表している。

定説では「羽柴秀吉は備中高松城の南方に長大な堤を築き、近くを流れる足守(あしもり)川を堰きとめ、川の水を堤の内側に放流した。おりからの豪雨で、足守川の勢いはすさまじく、城はみるみる水浸しになった」ことになっているが、林氏によると、写真を撮った1985年(昭和60年)6月は、足守川が決壊していないにもかかわらず、洪水が生じているという。

つまり、もともと備中高松城周辺は大雨が降ると洪水になりやすい地形だった。そして「水攻め」の時も、同じように大雨が数日間続いていたという事実を、異なる古書から調べて当てている。

さらにNHKは深掘りし、この地域に大雨が続くことを、同じ瀬戸内気候の中で育った黒田官兵衛は知っており、また地元の農民からもそういう情報を得ていたのではないか… と推察。

つまり築堤の本当の狙いは、足守川を堰き止めて決壊させるのではなく、洪水の排水口にあたる「蛙ヶ鼻」を封鎖すること。それにより、本来引くはずの水をそこに貯め続けることにあった。

1997年(平成9年)。地元の県立高松農業高校・土木課が、精密に土地の高低差を測定した結果、旧松山街道に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど高い「自然堤防」であることが判明する。

それによって古川古松軒や林氏が考えたように、蛙ヶ鼻と自然堤防の間の約300メートルを塞き止めれば、水攻めが可能だったということが物理的に立証された。

実に面白い話だが、ほとんどの備中高松城に関するガイドには、「水攻め」「中国大返し」」の話は書かれていても、この話は記載されていない。

ちなみに今をときめく歴史家の磯田道史氏は岡山市出身で、少年時代から備中高松城址付近をよく訪ね、林氏にも可愛がられていたという。何でもよく調べている先生だが、この件についてもきっと熟知しているに違いない(笑)。

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