但馬の小京都こと出石(いずし)に残る、川崎尚之助の供養碑

2013年に放送されたNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重は、同志社大学を設立した新島襄の妻だが、それは明治になって再婚してからの話。

彼女の最初の夫は、兵庫県出石出身の川崎尚之助である。

川崎尚之助ではピンと来ない人でも、同じNHKの朝ドラ「まんぷく」で、立花萬平役をつとめる「長谷川博己」と聞けば、思い出すかもしれない(笑)。

今日は「八重の桜」で一躍脚光を浴びることになった、その川崎尚之助の波乱に満ちた人生を紹介したい。

川崎尚之助は、1836年(天保7年)に出石の本町に住む藩士・川崎才兵衛の子として生まれた。ただ跡取りではない尚之助は、江戸に出て蘭学や舎密学を学び、有能な洋学者としてその頭角を現すことになる。

現在は子孫の川崎家も代々の墓も、出石から香美町に移ったそうだが、町内には生家跡の案内板があり、そこは写真の化粧品店になっていた。

さて。川崎尚之助の人生を変えたのは、ドラマで西島秀俊が演じた八重の兄・山本覚馬との出会いだ。

若くして洋式銃や兵法書の翻訳などに通じていたことが、会津藩砲術指南の跡取りだった覚馬の目にとまり、二人は親交を深めるようになる。そして会津藩が新型銃の導入を決めると同時に、尚之助は山本家に招かれ、八重の実家で暮らし始める。

やがて尚之助はその知識を発揮し、会津藩士として日新館で蘭学を教授し、銃器・弾丸の製造指導にあたる。八重との結婚は1865年(慶応元年)、尚之助29歳・八重21歳の時だった。

いっぽうその頃、京都では尊王攘夷派と佐幕派の対立が極限まで高まり、会津藩侯の松平容保は幕府に請われ、京都守護職として上京するが、「禁門の変」をきっかけに時代は大きく動き、大政奉還、戊辰戦争へと突き進んでいく。

鳥羽伏見の戦いでの勝利した新政府軍は、江戸城の無血開城後も抵抗を続ける旧幕府派の残党を討つため、更に北上。勢いに乗って会津まで迫り、追い詰められた藩民は鶴ヶ城に籠城し、最後の抵抗を試みる。

この時に八重と尚之助は砲術の腕前を発揮し、前線で指揮を執って奮戦するが、圧倒的な勢力を誇る官軍(新政府軍)の前に無念の開城を迎えた。

その直後の敗戦処分時に、八重と尚之助は離れ離れになる。

敗戦後の会津藩は所領23万石を没収され、極寒の地であった下北半島の一画に斗南(となみ)藩として、僅かに3万石の領地が与えられた。

八重は兄の覚馬を頼って京都に向かうが、尚之助は藩士として斗南に移住し、そこで涙ぐましい献身を貫き通す。

最終的に、尚之助は仲間たちの飢えをしのぐ手段として、米の調達のために先物取引に手を染める。だが協力者の背信行為や手形の不首尾などで行き詰まり、東京で裁判を受けることになった。

しかも藩は無関係として、一身にその罪を背負わされる。そして最後は、その裁判の最中に発症した慢性肺炎によって生涯を閉じる。享年40という若さであった。

さて。「八重の桜」の放映が決まり、川崎尚之助の詳細調査が行われたことから、川崎家の菩提寺である臨済宗・願成寺に、昭和40年代まで尚之助の没年月日と一致する刻文の墓石があったことが判明する。

戒名は川崎を暗に示す「光院清静友居士」であった。

それとこの石碑は別物だが、誰も恨むことなく日本人らしく信念を貫き通した無名に近い人物の存在が、こうして脚光を浴びたことを嬉しく思う。歴史再考、地域活性化のきっかけとなる大河ドラマの影響力はやはり甚大だ。

出展:「川崎尚之助と八重」
著者:あさくらゆう