松江城に残る真田幸村の軍扇(ぐんせん)は、大阪夏の陣における、松平直政の武勇を讃える品 

松江城は現存12天守のひとつに数えられる名城で、2015年春に国宝指定されたことで話題となり、一躍多くの人の知る存在となった。

ただ、今日の話は「松江城」の紹介ではなく、そこに保管されている真田幸村の軍扇についてだ。

幸村からこの軍扇を直接受け取ったのは、当時14歳の松平直政。

直政は大坂夏の陣で、幸村が守る玉造門の攻防戦で初陣を飾るが、若武者ながら勇敢に攻め込むその姿を見た幸村は、「敵方ながらあっぱれ」と讃え、自らの軍扇を真田丸から投げ与えたと伝えられている。

松平直政は徳川家康の次男で、今の福井県にあたる越前北ノ荘藩主・結城秀康の三男として生まれた。早い話が家康直系の孫である。

越前軍は大坂夏の陣で真田軍と激突するが、最後は幸村を筆頭に多くの敵将の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。

その後大名となった直政は、寛永15(1638)年に信州松本から松江に移封され、堀尾家2代、京極家1代の後の松江藩主となる。

幸村の軍扇は、以降、幕末の十代藩主・松平定安にいたるまで、230年間松平家の家宝として大切に保管されてきた。それが今日まで受け継がれ、こうして我々がその実物を拝めるという訳である。

ちなみに軍扇は、戦場での縁起物の道具として使われていたようだ。

中央の円形は太陽を意味しており、裏面に描かれた三日月とあわせて、その表裏で昼間と夜間を区別する。使い方の基本は、まず「昼間は、太陽側を表にし、骨を6つ開き、残りは畳んで使う。夜間は逆に、三日月側を表にし6つ開いて残りを閉じる。全部が開かれるのは合戦の勝利後だという。

興味深いのは、悪日に戦をする際には、昼間は三日月側を表にして使い、夜間は太陽側を表にして使うという点。

軍扇を使用する事で、悪日を吉日に変えてしまうというのは、大将のカリスマ性と兵の士気を高めるための重要なファクターだったのかもしれない。その意味からすれば、真田幸村は「軍扇の使い手」に相応しい武将だったと思う。

関連:国宝・松江城

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