平清盛と熊野古道


はたして、平清盛が熊野詣に幾度訪れたかは不明のようだが、清盛の熊野詣にまつわるエピソードの中で、もっとも有名なのは平治元年の出来事だろう。

清盛は鎮西の勧めで、息子や家来たちと熊野詣に出かけるが、その隙を狙って京で源義朝らがクーデターを起こした。世に言う「平治の乱」である。

その知らせを和歌山県の切目の辺りで聞いた清盛は、熊野のご神木であるナギの木の枝を手折って左袖に挿し、熊野権現に勝利を祈願したのち引き返し、見事にクーデターを鎮圧した。この事件を境に源氏は後退、平家は大きな躍進を遂げていく。

その後、白河上皇初めての熊野詣が行われ、そのお供集に清盛も加わった。 

さて。歴史を辿ると、歴代の上皇・法皇たちは頻繁に熊野詣を行っていたようだ。記録によると、白河法皇は9回、鳥羽法皇は21回、そして後白河法皇にいたっては実に34回もの熊野行幸を行っている。

上皇・法皇たちが熊野詣を行うようになった理由は、権力と宗教の関係にある。古来より、天皇は伊勢神宮と密接な関係を持っており、その関係を権力の支えとしてきた。

上皇・法皇がこれに対抗するには、自らの権力の支えになる宗教との関係が不可欠であったが、天皇との対抗関係や伊勢神宮の唯一絶対性を考えると、別に信仰の拠りどころをつくったほうが好都合… そのため、京都から適度に距離が近い聖地・熊野三山が選ばれたと見られている。

上皇・法皇の熊野詣を明確に記したのは、『新古今和歌集』撰者の一人として知らている藤原定家。後鳥羽上皇から高く評価され、院の歌壇の中心的歌人となった人物だ。

ちなみに後鳥羽上皇は、壇ノ浦で海に沈んだ清盛の孫に当たる安徳天皇の次の天皇である。

白河、鳥羽、後白河、そして安徳…
彼等はみな平清盛と深い関わりを持つ皇族で、平家という巨大な台風が消えた後に即位した後鳥羽天皇が、先代から脈々と伝わる熊野までの道のりを記録に残したことに、なんとも言えない因果を感じる。

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