車中泊で行く日本ロマンチック街道 大河ドラマゆかりの地めぐり 安中・軽井沢・松代


ロマンチック街道とは、今年発刊された「車中泊コースガイド・東日本編」の中で、カラー6ページに渡って取り上げた北関東観光の黄金ルートで、日光を皮切りに草津温泉他の群馬4湯を経由して、軽井沢から長野県の上田に通じている。

志賀草津道路

この記事は草津温泉から、長野県の渋・湯田中温泉に向かう途中のエピソードをまとめているのだが、夏季は志賀草津道路が走れるため、わざわざこんな大回りをすることはなく、冬なればこその旅路である。

最初は「安中(あんなか)」から。 
どこかで聞いたような気がすると思っていた矢先に、道端に立つ「八重の桜ゆかりの町」というのぼりが目に飛び込んできた。

それで思い出したぞ! ここは新島襄の「実家」がある町だ。しかしこの日は既に4時半を回っており、閉館時間が迫っていたため、近くの道の駅・みょうぎで泊まって明日の朝探しに行くことにした。

翌朝訪ねてみると、実家跡に建てられていたのは、新島襄が生まれ育った江戸屋敷だった。さて、ここからは駆け足で、その人生を振り返ろう。

新島襄は天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で生まれた。本名は七五三太(しめた)。大河ドラマでは後々の展開に合わせて、まだ彼が少年の時に早々と山本覚馬、川崎庄之助との出会いを演出、うまい伏線を敷いていた。

元服後は幕府の軍艦操練所で洋学を学び、アメリカへの強い憧れを抱く。そして元治元年(1864年)、函館からアメリカ合衆国への密航を決行する。その船内で「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗るようになった。

ボストンでは密航船の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。その後アマースト大学を卒業し、日本人初の理学士となる。アマースト大学では、「青年よ大志を抱け」でお馴染みのクラーク博士から化学の授業を受けていたというが、この縁で後にクラーク博士が来日することとなったというのだから面白い。

また、当初は密入国者として渡米したにもかかわらず、初代の駐米公使・森有礼によって、正式な留学生として認可される。そしてアメリカ訪問中の岩倉使節団との面会。襄の語学力に目をつけた木戸孝允の力添えにより、今度は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。

その後、宣教師の試験に合格し、日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、アメリカンボードから5,000ドルの寄付の約束を取り付けて、日本に帰国した。

これから先は、ドラマに描かれてきたので割愛するが、確かに新島襄の運の強さと行動力には目を見張るものがある。見方を変えれば「主に導かれた神がかり的な人生」とも思える。だがその新島襄も、とうとう次回の放映でこの世を去る。もしかすると次回が「八重の桜・京都編」のクライマックスなのかもしれない。

先日、伊香保で徳富蘆花の記事を書いたが、偶然にもそんな時期に安中を通るというのは、何とも不思議な巡り合せだ。同支社大学の創設は1876年。

それから約100年を経た学び舎に筆者は通った。帰阪後は、1年間懐かしい思いをさせてくれたお礼を兼ね、英学校時代の面影が残る今出川キャンパスと、京都東山若王子山頂に眠る新島襄の墓前に足を運ぶとしよう。

 ※もちろん有限実行している(笑)。

さて。安中の次は軽井沢の話をしよう。
軽井沢に足を運ぶのは今回が4度目になる。三笠ホテルやショーハウス、旧軽銀座、さらには中軽井沢の星野リゾートなど、この地の主だった観光地は既に撮影が完了しており、近々には取り上げる予定もないことから、当初は「素通り」するつもりでいた。

だが道中で、「軽井沢ショッピングパーク」と名付けられたオシャレ感のあるスーパーの前を通りかかったため、立ち寄ってみることにした。
余談になるが、ローカル・スーパーを見て回るのは意外に楽しいものだ。いかにも「ご当地」と呼べる食材が並んでいたり、ケンミンショーや「美味しんぼ」で取り上げられた珍味が品揃えされているだけでなく、精肉や鮮魚コーナーを通じて、その地域の食文化が垣間見れたりする。 

さすがは軽井沢。売っているものがちょっと違う。ペンションやレストランが使うのか、はたまた別荘でホームパーティーを開く際に使うのか… そんな想像をしながらウインドウショッピングをするほうが、筆者には旧軽銀座をぶらつくよりも遥かに面白い。

あまり見かけることのない鯉は、海のないこの地域らしい食材だ。

小1時間ほど店内を物色して筆者が買ったのは、サラダ用の野菜と牛の肉塊とボジョレ・ヌーボー。この日はサラダとウィズの中で焼いた「ローストビーフ」に赤ワインで、軽井沢チックにコジャレた晩酌を楽しんだ。

もちろんサラダフラワーは… 買ってない(笑)。
それにしても、換気扇ってのは便利な装備だ。

正確に云えばロマンチック街道は上田で終わるため、松代は「圏外」になるわけだが、歴史好きには実に興味深い土地なので、合わせて紹介しようと思う。

まず… ここまでの話に近い「八重の桜」に関連したところでは、山本覚馬や勝海舟、西郷隆盛、吉田松陰、川崎尚之助、そしてあの坂本龍馬らに強い影響を及ぼした、江戸時代の思想家「佐久間象山」の出生地である。

佐久間象山の名前だけでピンとこない人には、人気ドラマJIN(完結編)を思い起こしてほしい。ドラマでは市村正親が佐久間象山を演じていたが、未来に行ったことがあるという奇抜な脚本には大いに驚かされた。

いつもどおり煮え切らない南方先生に、「もしお前のやったことが意に沿わぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。」と言い残して、壮絶な死を迎えるシーンを覚えている人はいないだろうか。ちなみに「八重の桜」では、奥田瑛二が配役を務めたが、彼は顔までよく似ていた(笑)。

佐久間象山は幼いころから神童の誉れ高く、文武の才に秀でていた。江戸で西洋砲術や蘭学を極め、神田に私塾を開いていたが、そこに出入りをしていたのが上記の人物達。大河ドラマでは、この塾で新島襄が山本覚馬と初めて出会う設定になっている。

多くの若者から慕われた佐久間象山だったが、ペリー来航時に密航を企て、安政の大獄で囚われた愛弟子の吉田松陰をかばって連座され、国元の松代に蟄居を命じられる。その後桜田門外の変を経て赦免されるが、公武合体・開国論を説き、最後は京都で尊皇攘夷派に暗殺されてしまう。享年54歳。妻は勝海舟の妹だ。

地元の松代藩は、大老・井伊直弼を恐れ、佐久間家を取り潰してしまうが、後世になって名誉を回復し、現在はその先見に満ちた思想家を祀る神社が、生家の横に建てられている。

実は象山神社には、今年の春に一度足を運んでいた。
今回松代に立ち寄ったのは「別の目的」があったからだ。

 『甲陽軍鑑』によると、松代城はかつて海津城と呼ばれた名城で、武田信玄が宿敵・上杉謙信との「川中島の最終決戦」に備え、あの山本勘助に命じて築城させたと伝わる。

甲州流築城の模範になったこの城は、川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであったそうだ。それを山本勘助は80日で普請し、激戦となった第4回川中島合戦では、実際に信玄公はここから出撃している。

ちなみに山本勘助は、井上靖が1950年代初頭に執筆した小説『風林火山』の主人公で、武田信玄(晴信)の軍師として知られる伝説の人物。井上靖の生誕百周年となる2007年には同名で大河ドラマ化され、内野聖陽が山本勘助を、市川亀治郎が武田信玄(晴信)を演じた。

筆者は後年にDVDで見たが、このふたりの濃い演技にはさすがに耐えれず、少し間を入れ、2期に分けて全話を見tた。「とんび」・「JIN」でお馴染みの内野聖陽の、あの濃厚なる芝居を延々50話近く見続けるのは、並大抵の忍耐ではない(笑)。

その後の海津城は、城主の入れ替わりが激しかったが、1622(元和8)年に真田信之が10万石で入り、名も真田幸道の代に松代城と改められた。明治の廃城後は建物が打ち壊されたために、城としての景観を失い、わずかに石垣が残るのみになったが、1981年に現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。

長野市では1995年より環境整備工事を行い、発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元工事を着工。2004年4月には江戸時代の姿に限りなく近い状態に再現された。また2006年には、財団法人日本城郭協会より「日本百名城」に認定されている。

現地に行って初めてわかったこと…
なんと松代城は、まさに今上映中の話題映画「清州会議」のロケ地に使われていた。偶然にも既にその映画を見ていた筆者等はびっくり! 清須城の広場や表門のシーンをここで撮影したそうだが、確かにそう言われれば… しかし、特殊映像で全く違うように見せているため、そうたいした意味はなさそうだ。

北信濃の覇権を巡り、武田の「野望」と上杉の「義」が激突した「川中島の合戦」は、5度にわたって繰り返されたとされているが、もっとも激しい戦の舞台となったのが、長野インターからほど近いところにある八幡原周辺で、現在は史跡公園として整備されている。

公園の松林の中には武田軍の本陣が置かれた八幡社が静かにたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や、三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがある。

ちなみにNHKの大河ドラマは、2007年に「風林火山」で武田信玄と山本勘助、2009年の「天地人」では上杉謙信と直江兼続を取り上げ、両者の視線からこの戦いを描いている。当時は観光名所として大いに盛り上がったことだろう。また休日には、現地で地元のボランティアガイドさんが、無料で詳しい話を聞かせてくれるようだ。

さて、川中島の合戦の「第4ラウンド」が後世に広く伝えられるようになった背景には、武田の軍師・山本勘助と上杉謙信の「頭脳の戦い」が潜んでいる。それが有名な「きつつき戦法」で、武田軍が仕掛けた巧妙なトリックを、直前に謙信が見抜き、その「裏の裏」をかく奇策に打って出たことにより、数の劣勢を跳ね返して一気に武田の本陣に迫る… 

クライマックスともいえる戦いの中で、武田軍は副将の武田信繁、山本勘助らの忠臣を失うが、徐々に勢いを取り戻し上杉軍を追い戻した。

最終的な川中島の合戦の結果は、ボクシングで言えば「三者三様のドロー」のようだ。そもそも領地拡大を目指す武田と、その野望を「義」の精神で打ち破らんとする上杉では戦の目的が異なるので、結果を論じるには噛み合わないところがあるわけだが、戦では上杉方に軍配があがったものの、その後の北信濃は思惑通り武田が支配をすることになっていく。

これまで筆者は、上越市の春日山に残された上杉謙信の居城跡、後年に封印された米沢城、また武田側では、この旅の最初に訪ねた甲府の躑躅ヶ崎館、そして前記事の海津城と、信濃攻略の起点となった諏訪の町に足を運んできた。

大河ドラマのみならず、これまで幾度となく取り上げられてきたこの両氏には、まだまだ数多くのエピソードが残されており、深く知るほどに面白みが増す。信州といえば北アルプスの雄大な自然が真っ先に思い浮かぶが、こうした歴史上の見どころにも恵まれている。

最後に。ちょっと苦労はしたが、なんとか軍師「山本勘助」の墓前に辿りつき、ご冥福を祈ってきた。この後は温泉取材を再開、次回は驚きの温泉宿を紹介しよう。

【稲垣朝則のオリジナル・ウェブサイト】

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