太閤秀吉が愛した有馬温泉の歴史


最初に秀吉に至る前の有馬温泉の歴史を振り返ろう。
白浜温泉(和歌山)、道後温泉(愛媛)とともに「日本三古湯」にその名を連ねる有馬温泉の歴史を遡ると、神代の昔、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二神による開湯発見の話が『日本書紀』に記されている。

有馬温泉の歴史

 さらに西暦600年以降を見ると、大化の改新の頃に舒明天皇、孝徳天皇が有馬温泉に入湯された記録がある。

行基

その後、温泉寺を建立した行基が温泉発展の基礎を築くが、1097年(承徳元年)に大洪水が有馬を襲い、以後100年近く壊滅状態のままで推移したと考えられている。

仁西

その有馬を救ったのが仁西(にんさい)で、この二人の僧侶を「開創の行基」、「中興の仁西」と、この地では今も呼び慈しんでいるようだ。

太閤像

仁西による有馬再興から300余年を経た1528年(享禄元年)、この年の大火をきっかけに再び有馬に動乱が訪れる。ちょうどその時期に明智光秀の軍を打ち破り、柴田勝家、織田信孝などを次々と破って天下統一の地固めに成功するのが羽柴秀吉である。秀吉が初めて有馬温泉を訪れたのは、1853年(天正10年)のことだった。

パネル2

「再建の秀吉」は織田信長の存命当時から、信長の中国遠征に備えて有馬街道の普請を始めており、以前から有馬の温泉価値に注目していたようだ。その後も再三この地を訪れ、手厚い援助を行っているほか、自身も豪華な「湯山御殿」を建て、亡くなるまでの15年間に9度も入湯に訪れている。

特に有名なのは1590年(天正18年)の入湯で、有馬温泉の蘭若院阿弥陀堂に千利休や津田宗及といった名高い茶人を招き、大茶会を催した。この茶会は小田原の北条氏を倒し、天下統一を達成した凱旋イベントだったとも目されている。
毎年11月2~3日に開催される有馬大茶会は、当時の秀吉の遺徳を忍び、古の茶会を模したものだという。

いずれにしても“ねぎらいの湯”として、あるいは“もてなしの湯”として、それまで信仰や療法としての性格が強かった湯浴みに、物見遊山の要素を加えた太閤秀吉の日本の温泉文化への貢献は大きいのだろう。

有馬温泉

また同時に、有馬において特筆すべきは1597年(慶長2年)に始まった大規模な改修工事である。前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震(震度6から7の「烈震」または「激震」と推定される)により、有馬も甚大な被害を被っていた。そのうえ地震直後から温泉の温度が急上昇し、熱湯に変わってしまったのだ。それを聞いた秀吉は、有馬温泉の根本的な改修工事に着手する。

その後の有馬温泉は、江戸時代の最盛期に「有馬千軒」と呼ばれるほどの繁栄を見せる。しかも驚いたことに、秀吉の工事以来350年間、有馬町は一度も泉源の改修工事を行っておらず、この時の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことを示している。

太閤の湯殿館

さて秀吉は、その改修工事に合わせて「湯山御殿」に代わる自身の新しい湯殿の建設も命じていたが、完成を見ぬまま翌1598年(慶長3年)にこの世を去った。

それからおよそ400年を経た1995年(平成7年)。「阪神・淡路大震災」で損壊した極楽寺の庫裏(くり/寺の調理場)の下から、安土桃山時代の遺跡が発見された。発掘調査の結果、この遺跡は秀吉が有馬での湯治に使った「湯山御殿」の浴室・庭園の跡であることが確認される。

太閤の湯殿館

遺構は翌々年、神戸市の文化財・史跡に指定され、1999年(平成11年)には、この時の出土品を保存・公開し、秀吉が愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介するための博物館「神戸市立太閤の湯殿館」がオープンした。

陶器

「太閤の湯殿館」では、復元された庭園や蒸風呂・岩風呂の遺構、出土した破片をもとに復元された龍の飾り瓦、茶器、軽石、碁石などを展示している。
 

太閤の湯殿館
〒651-1401 兵庫県神戸市北区有馬町1642
☎078-904-4304

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:毎月第2水曜日
入館料:一般200円、児童及び生徒100円

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