この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
その編纂は奈良時代。東大寺ができた頃
日本最初の歴史書とされる「古事記」と、最初の正史と呼ばれる「日本書紀」の名を聞いたことがない日本人は、たぶん乳幼児くらいだと思う(笑)。
だが、それらはいつ・何のために編纂され、どこが違っているのか?
おそらく大半の日本人は、そのことに無関心だと思う。
もちろん、筆者も数年前まではそうだった。
だが、出雲や宗像、あるいは高千穂に足を運ぶようになって、たとえ神話といえども、「記紀」に記された内容が本当に「史実」と合致しているのか? という疑問を抱くようになり、「記紀」のことが気になり始めた。
そこでかねてからの疑問を紐解くことにした。
結論は、これから記す真実を知ったことで、少なくとも神話が残る土地の見方が大きく変わった。
とりわけ世界遺産となった「沖ノ島」と、神話の国「出雲」の本当の面白さが見えた気がする。
「古事記」と「日本書紀」の編纂時期と指示者は同じ!?
「古事記」と「日本書紀」は、ともに飛鳥時代末期に「壬申の乱」を制して即位を果たした、天武天皇の命で編纂が始まり、奈良時代初期の持統天皇の時代に完成している。
ここで誰もが疑問に思うのは、なぜ似たような歴史書が「2種類」必要だったのかということだろう。
しかし、筆者にはさらなる疑問が湧いてきた。
日本に漢字が伝わったのは5世紀初頭とされているのに、約300年もの間、本当にこの国には自国の歴史を記した書物が一冊も作られていなかったのか?
調べてみると、「帝記」「旧辞」と呼ばれる古文書が、実は「記紀」よりも先に存在していたようだ。
だが、それらは乙巳の変(大化の改新)や壬申の乱などにより、全て焼失してしまったという。
そのため、改めて日本創生からの歴史書を編纂する計画が持ち上がった。
そこで天武天皇は稗田阿礼(ひえだのあれ)に2つの古文書を暗誦させ、太安万古侶(おおのやすまろ)がそれを書き記すことになった。
それが712年に元明天皇に献上された「古事記」の序文に記されている編纂の謂れである。
ただ、天武天皇が即位する前に焼失したはずの古文書を、後日どうして暗誦させることができたのか? ということは分からなかった(笑)。
そもそも、そんな貴重な書物が「本当に跡形もなく」焼失してしまったのだろうか? いくらなんでも、管理がガサツすぎるように思えてならない。
どうやら歴史を調べているうちに、「どうしても細かいことが気になる悪いクセ」が、杉下右京から移ってしまったようだ(爆)。
「古事記」は国内向けの”歴史物語”
さて。「古事記」は上・中・下の三巻で構成され、上巻は天地開闢(てんちかいびゃく)から天孫降臨(てんそんこうりん)に至るまで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、そして下巻には仁徳天皇から推古天皇までのことが記されている。
ちなみに… この世に実在したと云われる天皇は、第26代継体天皇以降という説が有力で、推古天皇は第33代の女帝、また国内最大の前方後円墳でお馴染みの仁徳天皇は、第16代天皇と記されている。
それを重ね合わせると、古事記に記されている話は、「今となってはどこまでが史実か判別できない内容がほとんど」ということになる。
学識者の間でも、「古事記」の編纂は天皇を現人神(あらひとがみ)とし、その統治の正当性と世襲を民に周知させることが狙いであったという見方は多い。
ゆえに、神と天皇をつなげる神話の記述に重きが置かれ、日本人が理解しやすいよう和文で書かれているというのだ。
またそういう目線で見ると、中国や朝鮮などの諸外国が一切登場しないというのも合点がいく。
「日本書紀」は外交資料として用いられた”正史”
いっぽう、「古事記」の8年後に完成した「日本書紀」は、30巻と系図1巻からなり、天地開闢から天武天皇の皇后であった第41代持統天皇(じとうてんのう)までの話が記されている。
「古事記」との最大の違いは、漢文で書かれていること。
次に神話は少なく、統治者である天皇についての記述が多いこと。また、書式は中国の歴史書と同じように編年体で、朝鮮半島の情勢なども登場する。
そのことから、「日本書紀」は唐や新羅との外交に使う正史として編纂されたとする説が一般的だ。
ただし「古事記」と同様、天皇家がこの国を未来永劫統治していくにあたり、過去の都合の悪い部分が割愛されたり、書き換えられているとも云われている。