【2023年4月更新】
日本の史跡をめぐる車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、「天孫降臨神話」の舞台となった高千穂の謎を解説しています。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
なぜ「天孫降臨」の舞台は、九州の高千穂なのか?
九州と縁の深い神話といえば、やはり「天孫降臨」だと思うが、そこから話を始めるには、このテーマは長すぎる(笑)。
ということで「天孫降臨」にまつわる神話の話は、こちらでご覧いただくとして
ここでは「その元となったとされる真実」を、民俗学・歴史学・考古学の観点から時間をかけて迫りたい。
天孫族の
日本人のルーツ
約7万年前の日本列島は、まだユーラシア大陸と地続きになっており、その頃に現在の日本がある場所に移動してきた人々が、縄文人の祖先と云われている。
その後の地殻変動で日本列島が生まれ、以降1万2000年以上にわたって、縄文人は独自の文化を育んだ。
それがいわゆる「縄文時代」だ。
しかし紀元前3世紀ごろ、九州北部に中国大陸から多くの移民がやってくる。
彼らは稲作農耕民族で、「渡来系弥生人」と呼ばれるこの一団が、日本に弥生文化を広めていった。
現在はその渡来人のルーツが、中国の春秋戦国時代に「越」に敗れた「呉」の国の一団で、朝鮮半島南部を経由して渡来したという説が有力視されている。
実際に九州には、弥生時代初期に多くの渡来人がやってきた証拠や、日本ではじめて稲作が行われた遺跡が残されている。
上陸した時期や場所は違えども、九州で交わり人口を増やした「渡来系弥生人」は、やがて武力で本州へと進出を開始し、さらに縄文人を傘下に収めながら、とうとう奈良の地で大和政権を樹立するにいたる。
すなわち「日本神話」における「国譲り~神武東征」の話は、定説通り「渡来系弥生人」が日本統一の過程を神話化したものなのだろう。
ただここでの謎は、「邪馬台国」がすんなり「大和政権」になったとされていない点にある。
「渡来系弥生人」は2派存在した。
そこで調べてみると、おもしろい説にぶつかった。
ここまでの話は、現在の日本人のルーツは先住していた縄文人と、遅れて大陸からやってきた渡来人及びその混血を含めた人たちが、北九州から本州へと進んで今日に至ったというDNAの「2重構造」説にのっとっている。
だが近年の「国立遺伝学研究所」によるゲノム解析により、日本人のルーツは「3重構造」になっていることが判明した。
具体的に云うと、「渡来系弥生人」には、弥生時代初期に来た「第1波」と、弥生時代中期以降に来た「第2波」があり、両者には相違点が多い。
以下を見れば、その違いは鮮明だ。
「渡来系弥生人」第1波(安曇族・海人族)
長江文明
沿岸部に暮らす東南アジア人
稲作漁労民と海洋民族(米と魚)
水神信仰(竜蛇)
入れ墨文化
「渡来系弥生人」第2波(天孫族)
黄河文明
内陸部に暮らす北東アジア人
畑作牧畜民と遊牧民族(小麦と馬)
天空信仰(龍)
非入れ墨文化
実は日本神話や古代の文献を読み解くと、明らかに2種類の大陸文化が見えてくることから、民俗学や神話学の世界では、この研究発表の以前から、日本人の3重構造説が唱えられていた。
弥生時代初期に日本に稲作をもたらした「渡来系弥生人」第1波は、武力をほとんど持たない民族で、先住の縄文人とも平和的に同化していた。
しかし弥生時代中期以降に、中国大陸および朝鮮半島から断続的に日本にやってきた北方系の「渡来系弥生人」第2波は、どれも政治的・武力的な性格が強く、やがて日本を戦乱へと巻き込んでいった。
つまり「邪馬台国」は前者、高千穂に本拠地を構えた「天孫族」は後者になる。
この時点で気になったのは、「天孫族」は最初に日本のどこに漂着したのか?ということだ。
もし「渡来系弥生人」第1波と同じ北九州に着いたとなると、食料確保のために欠かせない稲作の適地は、既に「渡来系弥生人」第1波に押さえられていたはずで、まして文化の違う新参者を、容易には受け入れてくれなかったと推察できる。
だが「天孫族」は朝鮮半島からではなく、中国南部から高度な航海術と稲作文化を持ってやってきた。
と仮説すると、その心配は無用になる。
実際に鹿児島の野間半島にある黒瀬の海岸には、「ニニギノミコト上陸地」の碑があり、野間岳の山腹にある宮ノ山遺跡には、この地に上陸したニニギが宮殿を定めた場所と伝えられる遺跡がある。
確かにこのあたりに上陸したというなら、話の筋は通る。
しかしその場合は、野間半島が「高千穂」ということになるが、ネットを探す限り、そういう説は見当たらなかった。
なお野間半島からだと、距離的には霧島の高千穂峰の方がずっと近いが、霧島はシラス台地のために稲作には適していないし、「高千穂峰」という山はあっても、地名はない。
とどのつまり…
「天孫降臨」とは、日本に到着した場所ではなく、定着したところを指しているのだろう。
アマテラス=卑弥呼、邪馬台国≠高千穂?
さて。
筆者は2009年に高千穂にある天岩戸神社を初めて訪ねた際に、宮司さんから「興味深い話」を聞いている。
宮司曰く、「アマテラスには実在したモデルがいる。その人物は人望が厚く、特殊な能力を持っていたため、後に神様として祀られるようになった」。
そうなると、アマテラスのモデルとして思い浮かぶのはこの人だろう。
「邪馬台国」の女王であった卑弥呼は、アマテラスの別名である「日孁(ひるめ)」と名前が似ている、ともに独身だった、さらにシャーマン(宗教的職能者)で、実在したと予測される年代が重なる等々、共通点が多いとされており、同一人物との見方をする研究者は少なくない。
なるほど確かに、アマテラスのモデルがシャーマンの「卑弥呼」だったというのは、無理がある話のようには思えない。
ただここで気をつけたいのは、アマテラスのモデルだからといって、卑弥呼が高千穂にいたとは限らないことだ。
「魏志倭人伝」に記された「邪馬台国」の姿は、福岡県と佐賀県にまたがる広大な筑紫平野で発掘された「吉野ヶ里遺跡」に近いものとされており、山間の高千穂の地形とはかなり異なっている。
加えて「魏志倭人伝」には、倭人は稲作と漁労で生活していたと書かれており、それからすると「邪馬台国」は、海に近い場所にあったことになる。
さらに「邪馬台国」と「卑弥呼」の名前は、実は中国の文献にしか登場せず、「古事記」にはいっさい登場してこない。
ここでもう一度情報を整理すると
アマテラスは高天原を支配し、孫のニニギを高千穂に派遣した「天孫族」最大の祭神
そのアマテラスのモデルが卑弥呼
しかし卑弥呼は「天孫族」とは無関係
どうやらこのあたりから、神話がほころびを見せてくる(笑)。
大和政権とアマテラスの関係
現在は「渡来系弥生人」第2波の「天孫族」が、縄文人と「渡来系弥生人」第1波のクニを次々に滅ぼし、奈良に「大和政権」を樹立したことが明らかになっている。
つまり南九州に渡来し、高千穂に本拠地を構えた「天孫族」と、それより先に九州に渡来し、北西部で繁栄を築いていた「邪馬台国」は、もともと別の存在だったが、「邪馬台国」が魏志倭人伝に記載された以降に統合し、「天孫族」がその政権を担ったと考えれば、矛盾は生まれず筋が通る。
ただ「天孫族」が紆余曲折を経つつ、日本統一を果たすまでに、明るみに出したくない事実がなかったはずはなく(笑)…
「大和政権」による日本統一が確たるものとなった、天智天皇・持統天皇の時代に、全体を神話という”ぼやけた世界”の出来事に仕立て、しかも都合よく修正まで加えて作られたのが、古事記であり日本書紀だ。
実は「天孫族」は、異なる文化を持つ「渡来系弥生人」第1波が実質支配していた「邪馬台国」の女王「卑弥呼」を、それまで自分たちが太陽神として崇めてきた男神「タカミムスビ」とすり替えるかたちで、死後「太陽神アマテラス」という、絶対的な「皇祖神」に祀りあげている。
理由は力による押し付けが、「邪馬台国」で数で勝る「渡来系弥生人」第1波の人々に通じなかったからとされ、方向転換として信仰による懐柔策に出た。
その時代の弥生人にとって、太陽は農耕稲作社会における絶対不可欠な存在で、日本に渡来する以前から民族の心の拠りどころとされていた。
その太陽に新たなる祭神の「アマテラス」をリンクできれば、今度は「アマテラス」が絶対的な存在にとって代われる。
さらにその「アマテラス」の血を引く子孫を、天皇という「大和政権のトップ」に据えることができれば、いつの時代でも天皇が「絶対君主」になるというストーリーが完成する。
「天孫降臨神話」は、後世に生み出された「このストーリー」に合わせて作られていると思えば、なんとも分かりやすい物語になる(笑)。
しかし、実際に高千穂に刻まれた「天孫族の軌跡」を、”天下統一”にすべて消し去り、作り話にアップデートすることはできなかった。
その痕跡は、今も「くるふしの峰」に行けば、見ることができる。