日本史ダイジェスト/九州5 5分で分かる、薩摩藩(島津家)の歴史

明治維新150周年を迎え、大河ドラマ「西郷どん」の放送が始まったことで、2008年の「篤姫」以来、10年ぶりにお茶の間の注目を集めている鹿児島県だが、西郷隆盛の話に入る前に、大久保利通・大山巌・東郷平八郎、そしてNHK連続テレビ小説「あさが来た」で一躍全国にその名が知れ渡った五代友厚等々、数々の文武に秀でた逸材を排出してきた薩摩藩(島津家)の歴史を紹介しようと思う。

【戦国時代】九州制覇を目前にしながら、豊臣秀吉に敗戦

九州藩主の系譜には「断層」がある。

戦国時代の九州は「三国志」と呼ばれた時代で、大友宗麟(おおともそうりん)・島津義久(しまづよしひさ)・龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)の3大名らによる領地争いの最中にあったが、島津家が南から徐々に勢力を拡大し、九州統一がいよいよ目前に迫っていた。

それに「待った」をかけたのが豊臣秀吉だ。九州に出兵して島津家を降伏させた後、細川忠興(北九州)・加藤清正(熊本)、黒田官兵衛等(大分)などの豊臣家重臣を主要な拠点に配備し、土着の大名はことごとく領地を失った。

その中で、唯一「所領安堵」となったのが、不思議にも豊臣方と戦った薩摩の島津家である。その結果、鎌倉時代から室町・戦国・江戸時代を経て、明治維新による廃藩置県が行われるまで、島津家は薩摩の領主であり続けることになる。

薩摩の逞しさを世に知らしめた「島津の退き口」

その後勃発した「関ケ原の合戦」では、本意は東軍にありながら、結果的に西軍につくこととなり、敗戦が濃厚となった戦場で絶体絶命の窮地に立たされる。だが、大将の島津義弘は後世に「島津の退き口」と語り継がれる強行突破作戦を敢行し、奇跡的に薩摩への帰還を果たす。

ちなみに、この時薩軍と戦ったのが、大河ドラマ「直虎」に登場する「井伊直政」。だが、この戦で怪我を負い、2年後に彦根城の完成を見ないまま永眠する。

【江戸時代】幕府と婚姻を結び、太いパイプを形成

関ヶ原の合戦後、またもや敵方であったにもかかわらず、島津家は「所領安堵」となる。その背景には、朝鮮出兵で汗を流した島津家も反三成派で、戦前に東軍支持の姿勢を見せていたことがあるようだ。

そんな島津家と徳川幕府の絆が一気に強くなるのは、8代将軍徳川吉宗の時代だ。吉宗の口添えで島津家に輿入れした、5代将軍徳川綱吉の養女「竹姫」が最初の橋渡しとなり、さらに「竹姫」は島津家と一橋家の婚姻を進める。それが先に大輪を咲かせる種となった。

その「大輪」とは、一橋家出身の11代将軍・徳川家斉に、島津家から「茂姫」が輿入れし、正室(御台所)となったことを指す。ここで注目すべきは、四代以降の将軍の正室は、皇族・摂関家から迎えられるのが慣例で、親戚筋の大名家といえども、普通ならこの「壁」を乗り越えることはできなかったということだ。

しかし島津家のルーツを辿ると、平安時代に摂関家として活躍した藤原家との関係が浮かび上がる。その藤原家の末裔にあたるのが公家の近衛(このえ)家で、そこへの「養女」という奇策を講じ、「開かずの扉」をこじ開けた。

【幕末】密貿易等による財政立て直しで、さらなる躍進

外交的には大躍進を遂げることに成功した薩摩藩だが、財政はまさに火の車と化していた。島津家25代当主(薩摩藩8代藩主)で、前述した「茂姫」の父にあたる島津重豪(しげひで)の時代には、輿入れと参勤交代に加えて、藩士の増員とその教育への投資、さらには桜島の大噴火までが重なり、借金総額は500万両、今でいう1兆2500億円近くにまで膨れ上がっていたという。

この難局を打開したのが、「西郷どん」では竜雷太が演じている家老の調所広郷(ずしょひろさと)だ。黒砂糖の専売化と、清や琉球などとの密貿易を活発化させることで利益をあげ、さらに500万両もの借金をしていた商人たちに対して、「250年間、無利子で返済する」約束を取り付けた。

島津斉彬の元で近代化が進むが、急死とともに藩は迷走

財政立て直しに成功した薩摩藩だが、今度は「跡目争い」が勃発する。

当時の藩主・島津斉興(なりおき)は、西郷隆盛を見出し、後に薩摩藩希代の名君と呼ばれる革新派の嫡男・斉彬(なりあきら)とはソリが合わず、側室の子で斉彬の異母弟に当たる、保守的な久光を次の当主に立てようと画策する。

だが、江戸生まれで幕府の「切れ者老中」阿部正弘との親交が厚い斉彬に足元をすくわれ、あえなく失脚。斉彬は念願の薩摩藩主の座につくことに成功する。

藩主となった斉彬は、列強の東アジア進出に備え、急ピッチで薩摩藩の軍備近代化を図るとともに、一族から「篤姫」を再び徳川家に輿入れさせる。大奥を抱き込むことで、14代将軍に一橋家の慶喜(後の15代将軍)を擁立するための工作を精力的展開するが、志半ばで急死する。また不幸にも同時期に、薩摩藩の「後ろ盾」であった阿部正弘まで、病気でこの世を去ってしまった。

阿部正弘の次に幕府の実権を握ったのは、紀州藩から次期将軍の擁立を目指す井伊直弼(いいなおすけ)だ。大老に就任するや否や、反対派を次々に弾圧。世にいう「安政の大獄」が始まった。

いっぽう、斉彬亡き後の薩摩藩の舵取りを引き継いだのは異母弟の久光だが、世情への疎さから「安政の大獄」に怯え、薩摩藩の恩人でありながら、幕府から「お尋ね者」にされていた清水寺の月照和尚を、西郷隆盛が命からがら京から連れ戻ったにもかかわらず、その受け入れを拒否してしまう。その結果、斉彬の腹心であった西郷隆盛まで、奄美大島に軟禁せざるを得なくなった。

さて、その後の薩摩藩は、藩政の小松帯刀(こまつたてわき)や、大久保利通、さらに島から帰還した西郷隆盛らの藩士が牽引役を果たし、明治時代へと突入していく。そのため、ここで区切りをつけ、続きは別の記事に記載する。

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