この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊旅行における宿泊場所としての好適性」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
近頃の「大河」はホームドラマ化しており、必ずしも史実に忠実とは限らない。
大河ドラマの「困ったところ」は、時々史実に基づかないフェイクなシーンが挿入されることだ(笑)。
たとえば、2010年の「龍馬伝」では、香川照之扮する岩崎弥太郎が、山のような数の鳥籠を背負って、高知城下にある龍馬の家に頻繁にやってくる。
ところが、実際の岩崎弥太郎の生家は40キロほど離れた安芸市にあり、ナビには徒歩で8時間以上かかると出た(笑)。
では、「西郷どん」はどうなのか…
天璋院篤姫
「篤姫」といえば、2008年に放送された大河ドラマを思い起こす人も多いと思う。当時23歳だった宮崎あおいが、初々しくもキリッとした表情で好演し、一躍お茶の間のヒロインとなったのは、もう10年以上も前の話になる。
篤姫は幕末の薩摩藩より、むしろ徳川幕府を語るうえで、欠かすことのできない人物のひとりで、西郷隆盛とは2度にわたるかかわりを持っている。
現在の指宿(いぶすき)に敷地を持っていた今和泉島津家(いまいずみ・しまづけ)に生まれた於一(おかつ)は、19歳の時に11代薩摩藩主で従兄弟にあたる島津斉彬(しまづ なりあきら)の養女として迎えられ、名前を篤子(あつこ)と改名する。
その後近衛家養女の冠を得たあと、江戸場幕府13代将軍・徳川家定の正室として、江戸城に輿入れを果たした。
ふたりがもっとも親密だったのは、江戸屋敷の「花嫁修業時代」
さて。この時期の西郷隆盛は、斉彬の「庭方役」に抜擢されており、江戸に参謹する際のお共をしていた。
同時期に篤姫も、江戸屋敷で幾島から姫様としての作法を学んでいたため、ここでふたりが出会っていたのは確かだろう。ただし身分が大きく違っているため、親しい関係にまで至っていたというのは眉唾っぽい。
ちなみに西郷どんは、斉彬が薩摩へ戻った後も江戸に残り、さまざまなところへ出入りしながら、諜報活動をしていたようだ。
とりわけ、清水寺の月照和尚の協力を仰いで朝廷工作を行い、近衛家に接近したこと、また篤姫の婚礼品を買い揃えたという話は有名だ。
しかし、このあとふたりの人生は、全く逆のベクトルを描くことになる。
徳川家輿入れ後の篤姫と西郷どん
斉彬の思惑通り、なんとか将軍家に輿入れを果たした篤姫だったが、夫の家定は2年を待たずに死去してしまい、同じ年に斉彬までが急死する。
さらに幕府内の実権を井伊直弼が握ると、「公武合体」の名のもとに、14代将軍徳川家茂の御台所として、天皇の妹にあたる和宮(かずのみや)が入籍する。
これにより、斉彬が考えていた一橋慶喜の将軍擁立が立ち消えたばかりか、篤姫の大奥での立場にも暗雲が立ち込め始める。
いっぽう、斉彬亡き後の西郷隆盛は、「安政の大獄」が薩摩藩に及ぶのを恐れた島津久光により、奄美大島に軟禁される。
その後、大久保利通の尽力で藩職への復帰を果たすものの、今度は京都で勃発した攘夷派の暴走を食い止めるべく独断でとった行動により、久光から藩命に逆らったとの咎を受け、より遠い沖永良部島への流刑に処されてしまう。
再び、大久保利通のはからいで復帰するのはその2年後。1864年の「禁門の変」が勃発する年であった。
この時、西郷隆盛36歳。10年近く時代から取り残されていたことになる。
その後、時代は明治維新に向けて加速を強める。
1866年 薩長同盟締結
1867年 大政奉還
1868年 鳥羽伏見の戦い
そしてついに徳川方は全面降伏、世にいう「江戸城の無血開城」を迎えた。
篤姫と西郷隆盛の人生が、2度目に交錯するのはこの時だ。
篤姫は、江戸城無血開城の影の立役者
既に出家して天祥院(てんしょういん)となっていた篤姫は、勝海舟を介して西郷隆盛に武力行使と徳川家断絶を回避するよう嘆願し、事実上の新政府軍・総司令官であった西郷どんはそれを了承。
これにて江戸時代は完全に終わりを告げた。
斉彬の命を受け、一橋慶喜(後の15代将軍)擁立に動いた2人が、その慶喜を廃して江戸時代に終止符を打つことになるのだから、歴史はわからないし面白い。
ちなみにこの後、西郷隆盛は新国家の体制づくりに大いなる貢献を果たすが、10年後に「西南の役」で最期を遂げる。
いっぽう篤姫は、さらにその10年後まで生きながらえ、日本の民主化のあゆみを見届けている。