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龍馬が土佐を脱藩したのは28歳の時。 |
後日その事を聞いた武市半平太が、龍馬は「土佐の国にはあだたぬ奴だ」と語った話は特に有名で、「あだたぬ」とは土佐弁で包容しきれぬ人という意味を持つ。 |
龍馬が脱藩を決意した理由は、武市半平太を軽視する吉田東洋暗殺に反対だったからとする説と、長州主導の急進的な改革を目指す攘夷派の京都挙兵計画に魅力を感じ、郷里に見切りを付けたとする説などがあるようだが、いずれにしても、土佐藩の旧態然とした体質への嫌気が、その背景にあったことは確かだろう。 |
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さて、龍馬の脱藩については面白い逸話が残されている。 |
それは松ケ峠の番所を通過する際に、「坂本龍馬、まかり通る」と言って、堂々と番人の前を過ぎ去ったという伝承である。同時にそれはある疑問へと我々を導いてくれる。 |
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そもそも、なぜ龍馬は梼原(ゆすはら)を脱藩の道に選んだのか… |
| 龍馬が住んでいた高知のご城下から、梼原までは約75キロの道のりだ。龍馬は1862年の3月24日に出発し、翌25日には梼原に到着している。つまりこの距離をわずか2日で歩いている。しかも、本当の脱藩ロードはここからが本番となる… |
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| 実は、この道を通り、龍馬より先に土佐藩を脱藩した人物がいる。 |
| それは、「龍馬伝」で要潤が好演した澤村惣之丞。惣之丞は京都挙兵計画に参加すべく吉村寅太郎と共に既に脱藩しており、同志を募るために再び土佐に戻っていた。その誘いに乗ったのが龍馬なのだ。二人は土佐勤王党を通じた旧知の仲で、この後、惣之丞は龍馬の右腕として海援隊でも大いに手腕を発揮する。
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| 加えて… |
| 多くの志士が往復した梼原には、彼らをサポートしてくれるガイドとパトロンの存在があった。この小さな山村を旅するなら、彼らの存在を知っておくと面白さが倍増する。 |
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維新の門 |
梼原にある龍馬関連の観光名所といえばココ。 |
平成7年11月11日建立。題字は当時の高知県知事・橋本大二郎。 |
梼原町にゆかりのある六志士に、坂本龍馬、澤村惣之丞を併せた八人の銅像が建立されている。 |
銅像は彫刻家・濱田浩造氏によるもの。氏はこの維新の門群像以外に、岩崎弥太郎、お龍・君枝姉妹像、長宗我部元親など高知を代表する銅像を数多く手掛けており、作風は見るものを圧倒する迫力に満ちている。 |
ちなみに銅像は人間が服を着るのと同様に、甲冑の下の袴から重ね合わせて作り上げていくという。 |
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六志士の紹介(梼原町のHPより転用) |
吉村虎太郎 |
天保八年(1837)四月十八日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。
武市瑞山らと勤王党を結成、文久二年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年(1863)二月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も九月二十七日壮烈な戦死を遂げた。 二十七歳 |
那須信吾 |
文政十二年(1829)十一月十一日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。
文久二年(1862)三月二十六日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、四月八日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。
翌三年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で九月二十四日戦死した。 三十五歳 |
那須俊平 |
文化四年(1807)一月二日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。
元治元年(1864)六月六日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年七月、禁門の変に参加し、奮戦の末同月十九日、鷹司邸後門で戦死した。 五十八歳 |
前田繁馬 |
天保六年(1835)五月、松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久三年(1863)一族の前田要蔵に従って上京。禁裏守護諸藩の志士と交わった。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。
吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県桜井市)で同年九月二十六日戦死した。 二十九歳 |
中平龍之助 |
天保十三年(1842)四月三日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。
文久三年(1863)十一月六日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)七月十九日鷹司邸内で自決した。 二十三歳 |
掛橋和泉 |
天保六年(1835)三月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。
文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ六月二日自決した。 二十八歳 |
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| 丁重に弔われている六志士の墓 |
掛橋和泉邸 |
大河ドラマ館に再現された那須信吾宅 |
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脱藩の道 |
正式には高知市内から愛媛県五十崎町宿間をさすようだ。もちろんファンの中にはこの道を龍馬のように歩く人も多い。そのため地元ではガイドツアーを企画している。 |
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ちなみに、ガイドブックでよく見かける下の韮ヶ峠までは、梼原総合庁舎から車で30分はかかる。同じ場所にクルマを置いて歩けるのは、維新の門・ゆすはら座・三嶋神社・掛橋和泉邸・六志士の墓までが妥当。それでも90分程度は時間を見ておく必要がありそうだ。 |
なお韮ヶ峠まで行くなら、ついでに四国カルストの観光をお勧めする。山口県の秋吉台に匹敵する広大なカルスト高原には、一見の価値がある。 |
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茶堂と呼ばれた旅人の休憩所 |
三嶋神社に通じる神幸橋 |
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| 梼原のイベント情報 |
なお、2012年までは龍馬ふるさと博の一環で、梼原町立歴史民俗資料館を「大河ドラマ館」として展示会場にしている(有料/大人200円)。 |
内容は充実しており割安感を感じた。時間があればぜひ立ち寄られることをお勧めしたい。 |
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梼原の車中泊事情 |
市街地から3キロほど離れたところに温泉隣接の道の駅がある。 |
梼原の観光は、半日もあれば足りるだろうが、周りの観光地とは少し離れているので、1泊して1日ゆっくり時間を過ごす方がいいかも知れない。四国カルストに寄れば、時間は十分つぶせるはずだ。 |
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