小学生にも5分でわかる。日米和親条約と下田条約

ペリー提督率いる黒船艦隊の「2度目の来航」により、横浜で「日米和親条約」が締結され、それによって即時開放となった伊豆半島の下田で、その詳細事項が詰められることになった経緯は、「下田が「日本開国の舞台」と呼ばれる所以」の中で詳しく触れた。

下田の交渉場所となった了仙寺は、家康公の時代から将軍家との関わりがあり、別格の地位を有するお寺だったが、その名が歴史の表舞台に登場するのは、この1件からのことになる。

さて、ここで「日米和親条約」について、簡単に復習しよう。
といっても、そんなに詳しく学校で習ったのかどうかも忘れてしまうほど古い話ではあるけれど…(笑)

日米和親条約の概要

「日米和親条約」は、1854年(安政元年)に日本とアメリカとの間で結ばれた条約で要点は以下の通り。

●日本はアメリカに対して燃料や食料を提供する
●船や乗務員を保護する 
●下田・箱館(函館)の2港を開港する
●領事の駐在を認める
●日本が他の国と結んだ条約の中で、有利な条件は自動的にアメリカにも与える

実はペリーは前年の1853年(安政元年)に日本に来航し、、大統領の開国・通商を求める親書をもって幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が1年の猶予を求めたために、いったん志那まで退去している。

そして翌1854年2月に再来航し、江戸湾へ入港した。

幕府は現在の横浜開港資料館に応接所を設置し、約1ヶ月にわたる協議の末、全12箇条からなる日米和親条約を締結した。

2年越しで推し進められた「ペリーの執念」は、横浜で結実したわけだが、細かな付帯事項の協議は、即時開港となった下田に会場を移して続けられることとなった。

下田条約の概要

●アメリカ人の移動可能範囲は、下田より7里、函館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁じる 
●アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺を開放し、米人墓所は玉泉寺に置く 
●アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁じる

条約に従い、開港後の下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。

ただし「必要な品物その地相叶うべき事は、双方談判の上、取りきめ候事」(第六条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると、実際には貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等が欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始されたわけだ。

そこでは役人の監督下で、国内の売値よりもずっと高値をつけた品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。

これはまさしく「円高ドル安」。

日本もその気になれば、このくらいのことはできるわけだ(笑)。おまけに幕府は、欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになったという。

しかし、まもなく駐米大使として下田に乗り込んでくるハリスが、日産を再建したゴーンが如く、その豪腕を発揮して「大どんでん返し」を巻き起こす。

この続きは、以下のページで。

ペリーとハリス、ハリスと「唐人お吉」、そしてハリスと「日米修好通商条約」の関係

【下田Contents】

下田が「日本開国の舞台」と呼ばれる所以

下田の上手な観光方法と車中泊事情

下田の見どころ 一覧

下田の名物グルメは「金目鯛」

下田の名湯、「金谷旅館の千人風呂」

下田の車中泊スポット 一覧

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