脱藩の地・梼原で、坂本龍馬の同志が躍動する「維新の門群像」

和田城跡(川西路地区構造改善センター)の広場にある「維新の門」には、梼原町にゆかりのある六志士(吉村虎太郎・那須信吾・那須俊平・前田繁馬・中平龍之助・掛橋和泉)に、坂本龍馬、澤村惣之丞を併せた、八人の銅像が建立されている。

銅像は彫刻家・濱田浩造氏によるもの。濱田氏は「維新の門群像」以外に、岩崎弥太郎、お龍・君枝姉妹像、長宗我部元親など、高知を代表する銅像を数多く手掛けており、作風は見るものを圧倒する迫力に満ちている。

ちなみにこの銅像は、人間が服を着るのと同様に、甲冑の下の袴から重ね合わせて作り上げてあるという。

六志士の紹介(梼原町のHPより転用)

吉村虎太郎
天保八年(1837)四月十八日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。

武市瑞山らと勤王党を結成、文久二年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年(1863)二月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も九月二十七日壮烈な戦死を遂げた。 二十七歳

那須信吾
文政十二年(1829)十一月十一日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。

文久二年(1862)三月二十六日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、四月八日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。

翌三年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で九月二十四日戦死した。 三十五歳

那須俊平
文化四年(1807)一月二日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。

元治元年(1864)六月六日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年七月、禁門の変に参加し、奮戦の末同月十九日、鷹司邸後門で戦死した。 五十八歳

前田繁馬
天保六年(1835)五月、松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久三年(1863)一族の前田要蔵に従って上京。禁裏守護諸藩の志士と交わった。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。

吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県桜井市)で同年九月二十六日戦死した。 二十九歳

中平龍之助
天保十三年(1842)四月三日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。

文久三年(1863)十一月六日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)七月十九日鷹司邸内で自決した。 二十三歳

掛橋和泉
天保六年(1835)三月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。

文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ六月二日自決した。 二十八歳

故郷、梼原の地で丁重に弔われている六志士

今も残る、掛橋和泉邸

大河ドラマ館に再現された那須信吾の家。ここに龍馬と沢村惣之丞が脱藩前夜に泊まったとされている。

坂本龍馬、脱藩の地・梼原 Contents

脱藩の地 梼原

龍馬と同志が躍動する「維新の門群像」

脱藩の道ウォーキング

温泉が併設する「道の駅 ゆすはら」

四国カルストの見どころと、車中泊事情

■坂本龍馬とは…
坂本龍馬のプロフィールを簡単に
■生誕の地 高知
2つの資料館と、桂浜と高知城周辺
■脱藩の地 梼原
脱藩の道と維新の門群像
■大成の地 長崎
亀山社中、グラバー園、崇福寺など
■終焉の地 京都
御所・東山・祇園界隈に点在する龍馬ゆかりの地
■萩
松下村塾と明倫館
伊豆下田
坂本龍馬、脱藩赦免の地
■神戸
神戸の三宮に残る海軍操練所跡
■霧島温泉郷
龍馬とお龍の新婚旅行先
■下関
馬関とお龍と過ごした「自然堂跡」など
■鞆の浦
いろは丸事件の談判地

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