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古事記の綻びが分かる、須我神社とスサノオの関係

スサノオ

「ヤマタノオロチ伝説のパワー・スポットを巡礼する」に登場した中では、もっともメジャーで、如何にもそれらしい場所が、この「須我神社」だ。

「須我神社」のオフィシャルサイトにある「由緒」のページには、以下のように記されている。

簸の川上に於いて八岐遠呂智(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り「吾が御心清々し」とおっしやつて宮造りをなさった。そのとき美しい雲の立ち昇るのを見て、

「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」

と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮まりました。これが古事記・日本書紀に記載されている「須賀宮(すがのみや)」であり、日本初之宮(にほんはつのみや)であります。 三十一文字の歌も日本で一番古い歌であり、この地が「和歌発祥の社」と呼ばれる由縁でもあります。また、この歌の中の「出雲」が出雲の国名の起元であり、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞であります。

須我神社 オフィシャルサイト

どのガイドブックを見ても、概ね同じことが書かれているのだが、実は「須佐神社」と同じく、この「須我神社」にも注目すべき点がある。つまり、大事な話はこれからだ(笑)。

画像出典:うんなん旅ネット

「須佐神社」との共通点は、背後の八雲山に残る、通称「夫婦岩」と呼ばれる巨石と小祠(しょうし)で、「須我神社」の「奥宮」あるいは「奥の院」と伝えられてきた。

専門家によると、この巨石は磐座(いわくら)【古神道における信仰の対象となる岩そのもの】として祀られ、古くから須賀の地を治める部族の氏神として自然崇拝されてきたものだという。

スサノオがその部族のリーダーだったとすれば、話は丸く収まる。

だが、古事記には矛盾がある。なぜなら、スサノオは「高天原」からこの地に降り立ち、すぐに「ヤマタノオロチ」を退治している。それから新たに神社を建てたとしたなら、神社のない時代に使われた祭祀場の「奥宮」は、この世に存在しない。

ゆえに歴史学者の中には、「出雲国風土記」の大原郡海潮(うしお)郷の条に登場する宇能治比古命(うのじひこのみこと)、あるいは須義禰命(すがねのみこと)のどちらかが、元々のこの地方の氏神で、後世にヤマタノオロチ伝説の影響により、スサノオとクシナダヒメに置き換えられたと推察する人もいる。

実は「須我神社」には、天文年間(1532年 – 1554年)、この地に地頭として信濃国諏訪から赴任した中沢豊前守が、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀している。

以降、長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに「須我」になったという明らかな履歴がある。「須佐神社」に比べると、扱いが軽いとは思わないか…

もうお察しの通り、実はこのミステリーには次の「答え」が用意してある(笑)。

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スサノオ終焉の地に建つ「須佐神社」から、透けて見えること

 


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