この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、原稿作成のためのメモ代わりに書き残してきた「忘備録」を、後日リライトしたものです。

水戸黄門のプロフィール
バッバババ バッバ バッバババ ババババババ
♪人生楽ありゃ、苦もあるさ~
「やっぱり、そう来たか!」と予想している人もあるとは思うが、お殿様だけに、期待通り「王道」を行くことにする(笑)。
前話でも少し触れたが、水戸のご老公様は地元での人気もなかなかのようだ。市内には光圀公ゆかりの史跡や記念碑がしっかり整備されており、十分「黄門様ゆかりの地を巡るツアー」が楽しめる。
せっかくなので、ここで少し黄門様のプロフィールを紹介しておこう。
黄門様が徳川家康の孫にあたる話は前回したが、水戸光圀(徳川光圀)の父、頼房は家康の十一男で、三代将軍家光は従妹にあたる。
ただしその年齢差はなんと24歳。親子ほどの差があったため、光圀が補佐したのは4代将軍家綱と5代将軍綱吉だったようだ。
水戸藩主が天下の副将軍と称されたのは、他の大名と違って参勤交代をせずに常に江戸に留まる定府が義務付けられていたことと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことなどによるものらしい。
ちなみに光圀は、水戸光圀、徳川光圀、ご老公、黄門様、さらに地元では義公とも呼ばれている。
黄門とは中納言の異名で、中納言が唐の役所「門下省(もんかしょう)」の次官である黄門侍郎(こうもんじろう)の職掌に似ていたことに由来する。また義公は没後につけられた諡(おくりな)で、幕末に活躍し最後の将軍となった徳川慶喜の父にあたる斉昭の諡、烈公と並んでよく使われる表現のようだ。
こちらは光圀が着手した「大日本史」。
本紀73巻、列伝170巻、その他合せて397巻に及ぶ壮大なるこの歴史書は、明暦3 (1657) 年に編纂を開始し、光圀死後も継続され、なんと約250年後の1906年に完成した。
面白いことに、光圀はその生涯において旅らしい旅をしたことがないという。
だが代わりに多くの家臣が旅に出ている。光圀は「大日本史」編纂のために、儒者を集めて彰考館を設立したが、その史料収集のため多くの人材を諸国に遣わせた。後に助さん、格さんのモデルになる佐々宗淳(介三郎)、安積澹泊(覚兵衛)もまた彰考館の学者であった。
筆者の現在地は福島県の道の駅南相馬。
これから伊達正宗に会いに仙台へと向かう。ブログは少し後追いの形になるが、茨城についてもう1.2話書こうと思っている。今日は久々の晴天。暑くなりそうだ。


