この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
高遠城にまつわる歴史とエピソードを展示
高遠城にまつわる歴史エピソードと、高遠町歴史博物館【目次】
1.高遠城の歴史エピソード
1-1.戦国時代 ~武田氏の栄枯衰退の跡~
諏訪から伊那へ続く交通の要衝に位置する高遠は、戦国時代に駿河や遠江(とおとうみ)へ進出するための重要な拠点とされていた。
戦国時代初期の高遠城は、小笠原氏・村上氏・木曽氏と並んで「信濃四大将」に挙げられた諏訪氏の支族・高遠氏の居城だったが、1545年(天文14年)に、信濃侵攻を図る甲斐の武田信玄によって攻め落とされる。
その後、信玄は大河ドラマ「風林火山」の主人公になった、軍師で築城の名手と謳われた山本勘助に命じ、高遠城を前線基地とすべく大改修を行っている。駐車場に残る「勘助曲輪跡」はその名残だ。
実際に信玄は、1573年(元亀3年)に高遠城から遠江の三方ヶ原(静岡県浜松市)に進軍し、若き日の徳川家康を完膚なきまでに撃破した。
岡崎城に残るこの石像は、三方ヶ原での敗戦直後に、家康が自戒のため描かせたとされる肖像画「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をもとに後年造られたもので、「顰像」(しかみぞう)とも呼ばれている。
しかしその直後に、信玄は病に倒れ、この世を去った。
信玄亡き後の1575年(天正3年)に勃発した「長篠の戦い」では、後継者となった武田勝頼率いる無敵の騎馬隊が、織田軍の鉄砲隊の前に敗れ去り、歴史の潮目が変わる。
1582年(天正10年)、今度は織田軍が武田の領内へ侵攻し、高遠城を包囲した。
武田氏の衰退が顕著になる中、時の高遠城城主・仁科盛信(信玄の5男)は、織田軍相手に最後まで奮戦し、城を枕に壮烈な討死を遂げる。
この戦いを最後に、勝頼は織田軍の甲府侵攻に備えて、平城の躑躅ヶ崎館を捨て、韮崎の山上に築いた新府城で再興を期すが、流れは変えられず、最期は新府城を自ら焼き払い、自刀して果てた。
これにより武田氏は滅亡。天下布武を目論む信長の視界が開けた。
1-2.江戸時代前半 ~保科正之登場~
徳川家康が隠居し、二代将軍・秀忠が後を継いで、太平の時代を迎えた1617年(元和3年)、高遠藩主の保科家に、江戸からとんでもない「贈り物」が届けられた。
それが秀忠と、乳母の侍女・お静との間に生まれた男子・幸松だ。
当時は大奥の秩序を守るため、正室・側室以外を母に持つ子は、養子に出すのが通例とされていた。
しかも秀忠の正室は、織田信長の姪のお江(ごう)。
2011年に放送された、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の主人公で、上野樹里が演じていたのを覚えている人は多いと思う。
秀忠は叔父譲りで気性が激しいお江に、幸松の存在が知れればどうなるかわからないと憂慮し、武田信玄の次女・見性院に幸松を預け、養育を頼んだ。
とはいえ、建前は養子でも家康の孫、そしてのちに徳川三代将軍となる徳川家光の実弟となれば、もはや主賓以上の扱いだったに違いない(笑)。
保科家で正之の名を与えられた幸松は、藩の将来を嘱望され、高遠城の三の丸の新居で母と暮らし、養父となった保科正光の家臣から英才教育を受ける。
そして1631年(寛永8年)、亡くなった正光の家督を継ぎ、晴れて高遠藩3万3千石の藩主となった。
やがて正之は三代将軍となった家光の重用を受け、会津藩23万石の基礎を築くわけだが、その時から幕末まで脈々と受け継がれていく江戸幕府への忠誠心が、最後は戊辰戦争の火種になるから、歴史というのはわからない。
なお、保科正之がらみのエピソードは、高遠そばの記事にも記している。興味があればそちらもぜひ。
1-3.江戸時代中期 ~江島生島事件~
「江島生島事件」とは、徳川7代将軍・家継の時代に、将軍の生母・月光院の右腕と呼ばれた女中の江島が、山村座の役者・生島新五郎と密通している容疑をかけられ、それが発端で生じた大規模な「大奥風紀粛正事件」のこと。
今でも「大奥」といえば決まって登場してくる話だが、その理由はどうやら「冤罪」であることに起因しているようだ。
女中の最高位に取り立てられていた江島は、その才気煥発さによって、大奥の経済全般を掌握し、金の出し入れや呉服購入等における権益を、思いのままに支配できる大実力者になっていた。
当時の江戸城大奥には、天英院派と月光院派の二大勢力があったことから、事件は月光院の失墜を狙った天英院の陰謀説が有名だが、かたやでは膨れ上がった大奥の粛清を目論む、幕臣の偽装行為だったという説もある。
もちろん「江島生島事件」自体は高遠と何ら関係ないのだが、その主犯とされた江島が、どういうわけが高遠に遠流(おんる)されてきた。
当初は死罪を減じて島流しの裁決が下されたが、月光院が減刑を嘆願したため、高遠藩藩主の内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)親子にお預けとなった。
前述の幸松の時もそうだが、高遠には時折江戸から、とんでもない「贈り物」が届くらしい(笑)。
ただ「大奥」は三代将軍・家光のために作られたものだけに、この話にもどこか不思議な縁があるように思えなくはない。
実は復元された「絵島囲み屋敷」が、高遠に残されている。
当初、内藤家は江島の扱いにピリピリしていたという。
罪人とはいえ、江戸城大奥で権勢を振るった元の大年寄りに粗相があれば、お家断絶の原因にもなりかねない。
そのため最初は高遠城から一里も離れた、非持村火打平(ひじむらひうちだいら)に幽閉していたのだが、江島が高遠にきて三年目に家継が世を去り、”暴れん坊将軍”でお馴染みの、8代将軍・吉宗の時代に内藤家が嘆願した結果、囲い屋敷周囲での散歩や、城の女中らに作法を指導することが許されたという。
江島は高遠で61歳の生涯を閉じるが、彼女を厄介者扱いせず、誠実で血の通った受け入れをしたことは、高遠の人々が後世まで誇れる美談だと思った。
2.高遠町歴史博物館
さて。「絵島囲み屋敷」は、高遠町歴史博物館の隣にある。
高遠町歴史博物館は、古代・中世から現代に至る高遠城と城下町高遠の歴史、また文化や人物などにスポットをあてた展示になっており、これまで紹介してきたエピソードに関連する資料や、ゆかりの品も見られる。
また桜シアターでは満開の桜の映像も鑑賞できるので、悪天候時や違うシーズンに訪ねても損はない。
ただ、オフィシャルサイトくらいはあってもいいのでは…
伊那市立高遠町歴史博物館
☎0265-94-4444
大人400円
9時~17時(最終入館16時30分)・月曜定休