この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

歴史好きには「箱根関所」とともに作られた、「箱根旧街道」のほうが面白い。
通りやすい街道があるにもかかわらず、わざわざ狭く険しい箱根に関所を設けるために、新たな道まで作った江戸幕府。
今では考えられない不合理な話だが、それによって江戸時代はおよそ260年間続き、秘湯の湯治場だった箱根の温泉が、思わぬ繁栄を遂げるのだから面白い。
復元された箱根関所より、当時の名残が色濃く残る「箱根旧街道」に目を向けると、箱根が持つ本当の面白さが見えてくる。
箱根関所と箱根旧街道【目次】
1.古来より、箱根は関東防衛の拠点だった
「箱根関所」といえば、水戸黄門に代表される時代劇のイメージが強いが、実は奈良時代には既に箱根路が開かれるとともに、その街道上に関所が設置され、関東防衛の役割を担っていたことがわかっている。
室町時代には、鎌倉府が箱根に関所を設置して通行税(関銭)を徴収しており、戦国時代になると小田原の北条氏が山中城を築き、箱根を戦略拠点のひとつにしていた。
2.江戸時代の「箱根関所」
江戸幕府が、「箱根関所(箱根関)」を設置したのは1619年。
詳しくは後述するが、東海道を江戸と京都・大坂を結ぶ重要な街道とみなしていた江戸幕府は、箱根に新たなルートを開拓し、江戸防衛の要として大規模な関所を設けて、人や物の出入りを厳しく取り締まった。
2-1.「入り鉄砲に出女」
江戸時代の各関所は「入り鉄砲に出女」を取り締まっていたが、箱根関所では特に江戸方面からの出女を厳しくチェックしていた。
「入り鉄砲」とは江戸に鉄砲などの武器を持ち込むことで、「出女」とは江戸から出ようとする女性の中の、特に大名の奥方や子女を意味している。
江戸幕府は謀反を未然に防ぐために、諸藩の大名の奥方や子女を江戸に住まわせ、いわば「人質」を軟禁するかたちをとっていた。その「人質」が江戸から逃げ出すことは、謀反に通じるおそれがあるというわけだ。
3.箱根関所の復元
箱根関所は、1869年(明治2年)に明治政府によって廃止されている。
しかしその後、復元の機運が高まり、1922年(大正11年)に「箱根関跡」として国の史跡に指定され、1965年(昭和40年)には番所の建物が復元された。
さらに2007年(平成19年)には、1983年(昭和58年)に発見された1865年(慶応元年)の大規模修理についての克明な資料をもとに、大番所・上番休息所・京口御門・厩(うまや)の復元が完了し、「箱根関所」として一般公開されるに至った。
箱根関所 オフィシャルサイト
4.箱根旧街道
さて、先に話した「箱根に作られた新たなルート」というのが、箱根関所に通じる「箱根旧街道」で、現在は畑宿から芦ノ湖畔まで、往時の石畳が保存整備されており、昔の武士と同じように歩くことができる。
「箱根旧街道」は「箱根ハ里」とも呼ばれた箱根越えの険しい道で、雨が降ればすねまでつかるほどの泥道だったため、当時では珍しい近代的な石畳として整備された経緯を持ち、現在は国の史跡に指定されている。

出典:箱根関所資料館
1618年、その「箱根旧街道」の箱根峠と「箱根関所」の間に、東海道五十三次の10番目の宿場として「箱根宿」が設置された。
「箱根宿」は標高約750メートルにある山中の、人が居住していなかった場所を切り拓いて作られたため、麓の小田原宿、三島宿の住民を50戸ずつ、強制的に移住させたというから驚きだ(笑)。
それでも関所に隣接していた宿場ということで、本陣の数は東海道でもっとも多かったという。
こちらは芦ノ湖畔にある杉並木。巨木の樹齢は約400年で「箱根宿」を設けた際に植えられたと伝えられている。
