この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

秀吉の小田原城征伐のために築城された「一夜城」
石垣山城【目次】
1.石垣山城の概要
この城ができるまでは「笠懸山」と呼ばれていた「石垣山」は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が小田原城を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣となる総石垣の城を築いたことから、そう呼ばれるようになった。
1-1.秀吉の小田原征伐
秀吉が小田原攻めを決意した直接の理由は、北条氏政が秀吉の仲裁による真田昌幸との講和条件を、はなから無視して守らなかったことにあるとされている。
それが「小田原征伐」と呼ばれる所以だが、それ以外にも秀吉の依頼を受けた家康の説得にも関わらず、上洛の要請を撥ねつけるなど、元々秀吉の配下に座ることを良しとしなかった氏政だけに、いずれにしてもこの戦は回避することができなかったと思われる。
ただし、戦う前から結果は見えていた。
圧倒的な戦力に勝る秀吉は、この「小田原征伐」で、北条氏のみならず、陸奥の覇者こと「伊達政宗」との決着もつけている。
秀吉は小田原征伐の際に、伊達政宗に参戦を促す書状を送っていたが、父の時代から北条氏と同盟関係にあった政宗は、すぐに応じることができなかった。
最終的には浅野長政の説得で、政宗は1590年5月9日に会津を出立し、小田原へ向かうが、その場で秀吉の兵力を目の当たりにし、北条家との同盟を破棄し、秀吉側につくことを決断する。

出典:NHK
1987(昭和62)年放送された大河ドラマ「独眼竜正宗」の、白装束で秀吉の前に現れるこのシーンを記憶の方は多いと思う。
さらに秀吉は、召し上げた小田原を家康に領地として与える代わりに、大坂に近い駿府を取り上げ、東国の備えを万全のものにすることにも成功している。
1-2.「一夜城」のいわれ
さて、この城が「石垣山一夜城」あるいは「太閤一夜城」と呼ばれているのは、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、完成すると一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、全容を現したからとされる。
それを見た小田原城中の将兵が、驚くとともに士気を失っていったため、3ヶ月近く持ちこたえた氏政もついに籠城を諦め、戦わずして破れ去る。
氏政は切腹して果て、氏直は高野山へ追放された翌年に亡くなり、五代百年続いた北条氏の時代は幕を閉じた。
しかし実際には、石垣山城の築城に、のべ4万人が動員され、4月から6月までの約80日間が費やされたという。それでも異例の早さで完成を迎えられたのは、石垣となる石材がすぐ近くで採取されたことによる。
いずれにしても秀吉は、この城に淀君ら側室とともに千利休を呼び、茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりするなど、初めから高みの見物を決めていた。
秀吉にとっての「小田原征伐」は、戦というより政治の一環に過ぎなかったのだろう。

最後に。
2017年(平成29年)4月に「続日本100名城」に選定された石垣山城は、近江の穴太衆による野面積みの、関東で最初に造られた総石垣の城で、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐えて、今日まで当時の面影をよく伝えている。
3.石垣山城の駐車場
周辺に一般客用の駐車場がない「小田原城」と違い、「石垣山城」は本丸跡までは5分ほどのところに、58台が停められる無料の駐車場が用意されている。
隣接して直売所を併設するカフェレストラン「 一夜城ヨロイヅカファーム」があるので、ナビはそこを目印にするといい。
ここには野外トイレがあるのだが、利用できるのは8時30分から17時まで。駐車場は夜間も開いているが、ポータブルトイレがないと車中泊は難しいだろう。