「クルマ旅専門家」・稲垣朝則が、10年以上かけてめぐってきた全国の温泉地を、「車中泊旅行者の目線」から再評価。車中泊事情や温泉情緒、さらに観光・グルメにいたる「各温泉地の魅力」を、主観を交えてご紹介します。
伊香保温泉名物の石段は、「長篠の合戦」の副産物
伊香保温泉の「石段誕生エピソード」【目次】
プロローグ
伊香保温泉の説明書きを見ると、
伊香保温泉は「長篠の合戦」に敗れた「武田勝頼」が、「真田昌幸」に命じて石段を整備させたのが始まり
というような記述をよく見かける。
確かにそれは事実だが、それに至るまでの多くのファクターが抜け落ちているため、歴史や大河ドラマが好きな人以外には、さほど興味が湧きそうな話には聞こえない。
この話を伊香保温泉のPR材料にするなら、もう少し歴史を深掘りすることが必要だ。
長篠の合戦とは?
史跡めぐりの記事ではないので、ここでは超簡単に説明しよう。
「長篠の合戦」とは、当時最強と恐れられていた「武田の騎馬軍団」を、織田・徳川の連合軍が鉄砲隊を駆使して打ち破った歴史的な戦いで、戦国時代の合戦スタイルのみならず、戦国大名のパワーバランスをも大きく変えた。
敗因は鉄砲だけではないようだが、いずれにしても手痛い敗北を食らった勝頼の軍勢は、1万人以上もの死傷者を出す大きな被害を受けたと云われている。
兵士の温泉治療は信玄譲りの武田の方策
温泉好きなら「武田のかくし湯」をご存知だと思う。
「かくし湯」とは、土地の領主が独占的に利用していた温泉のことで、特に武田信玄は領内に温泉が多いこともあって、将兵の湯治を目的に、領内各地の温泉を活用していたことがわかっている。
温泉を「野戦病院」として活用する方法は、信玄の後継者である武田勝頼にも受け継がれていたのは当然で、信玄に仕えていた真田氏もまた、同様に領内に「かくし湯」を数多く持っていた。
伊香保温泉の湯と効能
野戦病院に伊香保温泉が選ばれた理由には、泉質も大きく寄与している。
求められる効能は「刀傷によく効く」ことであって、温泉なら何でもいいというわけではない。
現在の伊香保温泉には「黄金(こがね)の湯」と「白銀(しろがね)の湯」が湧き出しているが、この時代の伊香保温泉のお湯は、湯の中に含まれる鉄分が酸化し、独特の茶褐色になる硫酸塩泉の「黄金の湯」だけだった。
そして肌触りが柔らかくて刺激が少ない伊香保の硫酸塩泉が、切り傷や火傷に効くことを、勝頼は心得ていたようだ。
武田勝頼と真田昌幸

出典:NHK
結論から云うと、武田家は「長篠の合戦」に敗れてまもなく、織田軍に攻め込まれて滅亡する。
平岳大演じる勝頼が、家臣の裏切りから自刃に追い込まれる様子が大河ドラマ「真田丸」でも描かれていたが、それもあって勝頼の後世の評価はあまり高くなかった。
しかし近年は変わってきているようだ。
武田勝頼は1546年(天文15年)に武田信玄の四男として生まれ、信玄の晩年の戦にほとんど従軍している。
その実績により家臣の信頼を固めた勝頼は、信玄亡き後、武田家第二十代当主として家督を継いだ。
勝頼は信玄が築いた領土を更に広げていくために積極的に外征し、1574年(天正2年)には織田家の東美濃の明知城、徳川家の高天神城を攻略するなど、後に天下人となる織田信長、徳川家康の両将から勝ち星をあげると同時に、領地を武田家史上最大にまで拡張した。
だがその翌年に、長篠で仕返しを食らう。

出典:NHK
いっぽう真田昌幸は、真田信繁(真田幸村)の父で、NHK大河ドラマ「真田丸」では草刈正雄が、以前の「真田太平記」では丹波哲郎が演じた、戦国時代屈指の智将として知られている。
信玄没後は勝頼に仕えるが、中心となる所領は西上州で、1565年(永禄8年)に岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)を攻略してからは、武田家郡代として岩櫃城主となり、吾妻郡と西上州を統治していた。
なお真田昌幸については、以下に詳しくまとめた記事がある。
わざわざ石段を築いた理由
この時は武田軍が再起を図るためにも、一刻も早く「かくし湯」のどこかに、大量の将兵を収容できる温泉野戦病院を作ることが急務だった。
そこで勝頼は、伊香保周辺を支配していた腹心の真田昌幸に、野戦病院づくりの重要な任務を命じる。
当時の伊香保は、伊香保神社からさらに奥に上った「黄金(こがね)の湯」の源泉周辺に、伊香保屈指の老舗「千明仁泉亭」をはじめとする、わずかな浴舎があっただけだったという。
そこで昌幸は、そことはまったく違う現在の位置に長い石段を築き、両脇に石垣を配して宿舎を建てる策に出た。
さらに源泉を通す木製の湯樋を土中に埋め込み、最奥部にある源泉井戸から傾斜を利用して、温泉を温泉街へ流すという仕掛けを編み出した。
その結果、野戦病院は長篠の戦いの翌年の1576年(天正4年)に見事完成する。
石段途中には温泉を分湯する小間口(小満口)を設け、温泉は16ヶ所設けられたその小間口から巧みに配湯されていたという。
さらに昌幸は、伊香保には戦で傷を負った傷病兵を湯治させるだけでなく、上杉や北条の進攻を見張ると同時に、箕輪城を守る砦(とりで)としての役割まで持たせていたというから驚きだ。
転んでもただでは起きない、まさに知将の面目躍如というところだろう。
そしてこの日本初の温泉都市計画ともいえる伊香保温泉石段街は、1639年(寛永16年)に規定された、徳川幕府の小間口による分湯方式へと引き継がれ、今日へと至っている。
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