車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、松本城と城下町の見どころ及び、車中泊もできるお勧め駐車場を紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
城下町と松本城をセットで観るには、マイカーアクセスに工夫が必要。
松本城 DATA
松本城
〒390-0873
長野県松本市丸の内4-1
☎0263-32-2902
観覧料 おとな700円
8時30分~17時
松本の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2012.09.17
2012.11.12
2015.03.11
2015.04.11
2015.04.26
2017.04.13
松本での現地調査は2017年4月が直近で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年7月に更新しています。
松本城と城下町

松本城の歴史
国宝指定されている「松本城」は、日本の「現存十二天守」のうち、5層6階の天守を持つ最古の城として知られている。
その歴史は、戦国時代のはじめに築かれた深志(ふかし)城まで遡る。

出典:松本城
室町幕府の力が衰え、世の中の秩序が乱れ始めた戦国時代に入ると、松本平の中心にあたる井川に館を構えていた信濃の守護大名「小笠原氏」は、東の山麓の林地区に館を移し、家臣たちは「小笠原氏」の居城となった「林城」を取り囲むように、それぞれが支城を構えて守りを固めたが、「深志城」は「林城」の前面にあたる平地側を守る重要な役割を担っていた。
その後、甲斐の「武田信玄」が信濃に勢力を広げ、「小笠原長時」を追放してこの地を占拠し、信濃支配の拠点にするが、武田氏が滅んで織田家の支配が及んだ「深志城」を、「本能寺の変」の動乱に乗じ、越後の「上杉景勝」の助力を得た「小笠原洞雪斎」が奪還する。
さらに「徳川家康」の旗本となった「小笠原貞慶」が旧領を回復し、「松本城」と改名した。
1590年。
「豊臣秀吉」が小田原の「北条氏」を成敗して天下を統一すると、「徳川家康」は江戸に移封され、「小笠原貞慶」もそれに従って下総へ去る。
その後に「松本城主」となるのが、「徳川家」を出奔して「秀吉」の家臣となった「石川数正」だ。
「石川数正・康長」親子は、「松本城」と城下町の経営に尽力し、近代城郭としての「松本城」の基礎を固めた。
具体的には、「康長」の代に”天守三棟”と呼ばれる「天守」「乾小天守(いぬいこてんしゅ)」「渡櫓(わたりやぐら)」をはじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを次々に造営し、「本丸」「二の丸」を固める「三の丸」に武士を集めると同時に、城下町の整備を推し進めている。
「石川康長」による詳しい築造年代は、「関ヶ原の戦い」直前の1593年~1594年と推定されている。

出典:NHK
さて。
少し余談になるが、「石川数正」出奔のくだりは、2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」で詳しく描かれていたので、記憶に新しい人も多いと思う。
「松重豊」演じる「石川数正」は、「酒井忠次」とともに「徳川家康」が他家の人質だった頃から側近として仕えた重臣で、「家康」が「今川家」から独立する際に、決死の覚悟で駿府まで赴き、「家康」の正室「築山殿」と、まだ幼い長男「信康」を無事に連れ帰ったり、「信長」や「秀吉」との外交役を務めたりと、「徳川家」における貢献度は絶大だった。
その「石川数正」が、「家康」を裏切って「秀吉」についたのだから、「家康」ほか「徳川家臣団」のショックは、計り知れなかったはずだ。
史料には残されていないが、「石川数正」出奔には幾つかの説がある。
「数正」は徳川方の使者として、何度も「秀吉」のもとを訪れており、その実力を「徳川家」の誰より理解していた。
だが、小牧山で一度「豊臣軍」を撃破している「徳川家中」には、「秀吉」との攻戦派が多く、恭順を主張する「数正」は日を増すごとに孤立していった。
「どうする家康」では、「石川数正」の出奔は、あえて自身が「徳川家」から身を引くことで、徳川家の求心力を低下させ、「家康」が「秀吉」とぶつかるのを未然に防ごうという、「家康」を想っての決断であったように描かれていた。
ただ、人質として「豊臣家」に取られている我子を守るためだったとも云われており、真相は未だ定かではない。
しかし結果からすると、最終的に「松本城」は無傷のまま江戸幕府のものとなり、築城当時の思惑とは真逆の、”上方にくすぶる「豊臣勢力」に目を光らせるための拠点”になるのだから、歴史はおもしろい。
「どうする家康」の見解に立ち、もし「石川数正」がそこまで見越して、豊臣の金で「松本城」を近代城郭へ仕立てあげたとすると、「家康」どころではない「大狸」だったとも云えるだろう(笑)。
「石川数正」が入城してから、1867年に「大政奉還」が行われるまでの「松本城」の城主は、「石川氏」「小笠原氏」「松平氏」「堀田氏」「水野氏」「戸田氏」の6家で都合23人。
いずれも「徳川家」とゆかりのある家柄で、中でも「松平氏」は「徳川家康」の孫にあたる「松平直政」が当主で、後に島根県の「松江城」に転封されるが、長野のそば切り職人を現地に根付かせ、有名な出雲そばを育んだ話は有名だ。
また最後の城主となった「戸田氏」は、1726年(享保11年)から約145年間の長きにわたって城主を務めているが、その嫡流は「徳川家康」の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた「松平康長」になる。
1872年(明治5年)
「松本城」は「廃城令」を受けて天守が競売にかけられ、解体の危機を迎える。

出典:松本城パンフレット
その窮地に立ち上がったのが民権運動家「市川量造」で、落札主から天守を借り受けて博覧会を開催し、その収益で天守を買い戻すことに成功した。
しかし今度は、明治30年代頃より天守が大きく傾き始める。
そこで当時の長野県松本中学校長だった「小林有也」(こばやしうなり)が「松本天守保存会」を結成し、集めた募金で1913年(大正2年)に天守の修理を完了した。
さらに「松本城」は、終戦直後の1946年(昭和21年)に、日本駐留連合軍総司令部・民間情報局美術顧問のチャールス・F・ギャラガー氏から、解体修理の必要性を指摘され、1950年(昭和25年)から1955年にかけて、国宝保存事業の第1号として、「昭和の大修理」を受けている。
このように歴史を辿れば、度重なる3度の崩壊の危機を乗り越えてきた「松本城」こそ、”奇跡の城”だ。
ここを流行りのパワースポットに加えない、若者諸君の気がしれないね(笑)。
松本城の見どころ

出典:松本城
こちらが「松本城」の見取り図になる。
まず「松本城」随一のフォトスポットは、天守に北アルプスが映える❶のあたりだ。
夏になると霞がかかるので、チャンスは秋から春先だが、GWには山の残雪が少なくなるので、ベストは桜の咲く頃だろう。
続いては、国宝の天守全体がきれいに収まる、❷の本丸御殿跡になる。
国宝に指定されているのは、「天守」に「乾小天守(いぬいこてんしゅ)」「渡櫓(わたりやぐら)」「辰巳附櫓(たつみつきやぐら)」「月見櫓(つきみやぐら)」を合わせた5棟の建物で、これらは総じて「連結複合式天守」と呼ばれている。
前述したように、「関ヶ原の戦い」前に築かれた「天守」「乾小天守(いぬいこてんしゅ)」「渡櫓(わたりやぐら)」の3棟には、鉄砲を撃つための「鉄砲狭間(てっぽうざま)」と、矢を射るための「矢狭間(やざま)」と呼ばれる、小さな窓が115ヵ所も設置されている。
また、石垣から迫ってくる敵兵に石を落としたり、熱湯をかけたりするための窓とされる「石落(いしおとし)」も計11ヵ所設置されているなど、本格的な籠城戦を想定した備えが万全だ。
いっぽう、「連結複合式天守」の写真にオレンジの枠で囲った「辰巳附櫓(たつみつけやぐら)」と「月見櫓(つきみやぐら)」の2棟は、それから40年を経た太平の時代に建築されているため、戦とは無縁の優雅な佇まいになっている。
とりわけ「月見櫓」は3方向が開口部となっており、これを開け放して月を愛でたと云われている。
「聞けば、なるほど」だが、このように異なる時代の建築が共存している天守は、全国で「松本城」ただひとつしかなく、戦いの時代と平和な時代における城の在りようがよく分かる。
ちなみに「松本城」の天守は「五重六階」と呼ばれ、「天守」の3階は外から見えにくくした「秘密の間」になっている。
こちらがその「秘密の間」。
天守には入場できるので、実際に中を見学することが可能だ。
構造上、窓が造れなかったため「隠し階」もしくは「暗闇重」(くらやみじゅう)とも呼ばれ、戦の際には倉庫・避難所として使われるという。
ただし、天守の中の階段はご覧の通りの急角度なので、女性はスカートでは行かないほうがいい。これは「松本城」だけでなく、「現存十二天守」のどこにも当てはまる話だ。
続いては「松本城」天守からの眺望についてだが、これには重大な秘密がある。
写真は「松本城」の実質的な最上階にあたる5階で、東西南北に窓があるので、肉眼では外の景色を観ることができる。
しかしこのように、窓には蜂の巣状のネットがあるため、写真は撮れない。
では、筆者はどのようにしてこの写真を撮ったのか…
答えは最上階ではなく、4階の階段横にある小窓から。
「松本城」の天守で周りの景観が撮れるのはここだけだが、アングルはひとつだ。
ちなみに筆者は、こういう記事を書くことを前提に下見や予習を行い、説明に必要な画像をあらかじめ想定して撮影している。
なぜなら観光客は、普通は天守から城下町が見渡せるものだと思って来る。
しかし「松本城」は、ある意味はその期待を見事に裏切っている。
安全第一とはいえ、スマホの普及で今や「国民総カメラマン」の時代に、これはさすがにいただけない。
庶民の筆者は、実際に自分の財布から観覧料を支払って見に行く人に対し、そういう情報を出さずにはいられない。
松本城の見どころは上の公式サイトに詳しく書かれており、本来はそれを見れば十分なわけで、我々旅行家には、そこには記されていないが旅行者にとって重要と思う情報を発信してこそ”存在価値”が宿る。
城下町の見どころと、お勧めの見学ルート
通常の「松本城」の説明はここまでだが、「石川親子」が城とともに重きを置いた城下町がここには残されており、合わせて見ないのはもったいない。
たとえば、上のマップの中央を横切るように通る、城下町のメインストリートにあたる「本町通り」が、「女鳥羽(めとば)川」を超えたところで屈折して「大名通り」に通じているのは、敵に城郭まで一直線に攻め込まれないようにした、「喰違」と呼ばれる防御機能の名残だ。
城下町は領主の居城を中心に形成され、防衛・行政・商業の機能を持った都市形態で、戦国時代には主に敵の侵攻を防ぐための要塞として機能していたが、太平の世を迎えた江戸時代以降は、政治・経済の中心地として発展する。
松本の城下町は南北に長く、防衛強化を図るためにその中心を流れるよう河川工事が施された「女鳥羽川」は、川南の町民地と川北の武家屋敷が並ぶ地域を隔てる役割も担っていた。
現在の松本城下町の主な見どころは、その川南に残る町民エリアにある「ナワテ通り」と「中町通り」の2本の筋で、両者は明治以降に繁栄を遂げてきた。
松本城下のお勧め見学ルート
ということで、その町民エリアから松本城を往復するモデルコースを紹介しよう。
所要時間は3時間ほどなので、午前中で十分周れる。
❶「松本商工会議所中町駐車場」にクルマを停めて、松本城へ向かう。
駐車場については後ほど詳しく解説する。
❷「大名通り」の「松本市観光情報センター」でマップを入手する。
「大名通り」は、「女鳥羽川」にかかる千歳橋から松本城にいたる約300メートルの目抜き通りで、かつては重臣の武家屋敷が並んでいたが、明治維新以降は警察や銀行が建てられた。
街路樹の「しなのき」は環境省選定の「かおり風景100選」に選ばれている。
また地下水の豊富な「松本城」周辺は、「まつもと城下町湧水群」として「平成の名水百選」に選定されており、井戸や遊水地があちこちにある。
❸「松本城」見学。
❹「女鳥羽川」を渡り、「なわて通り」を散策。
かつては堀と川の間にあった土手で、「縄のように細くて長い」ことから、そう名づけられた「なわて通り」は、「女鳥羽川」沿いに伸びるレトロな雰囲気の商店街だ。
明治時代に堀が埋められ、明治12年に建立された「四柱(よはしら)神社」の参道として栄えてきた歴史を持つ。
その頃から露店が立ち並び、戦後は闇市がたっていたこの場所は、現在は歩行者天国の商店街として整備され、地元住民だけでなく観光客も多く訪れる。
飲食店に加えて、昔懐かしいおもちゃ屋や、おしゃれな雑貨屋も軒を並べており、確かにユニークな土産品を探したい人には、一見の価値がある通りだろう。
ちなみに、カエルのモニュメントがあちこちに置かれているのは、かつてこのあたりには「河鹿蛙(かじかがえる)」が多く生息していたが、「女鳥羽川」が汚染されて蛙がいなくなり、さらに通りの活気自体も失われた時期があったことに起因する。
再生への思いから、昭和47年に「かえる大明神」を祀り、町が一丸となって新たな取り組みを進めた結果、現代に往時の賑わいが蘇った。
❺「蔵の街 中町」で食事・喫茶をして駐車場へ。
「女鳥羽川」を挟んで、東西に「なわて通り」と平行に走る「中町通り」は、松本城の東側を通って城下を南北に貫く、現在の国道143号「大橋通り」にあたる、当時の「善光寺街道 (北国街道西街道)」と交差しており、主に酒造業や呉服などの問屋が繁盛していた。
だが、江戸末期から明治に大火に見舞われ、多くの蔵と町家が消失した。
再三にわたる火災から家屋を守るため、商人たちの知恵から生まれたのが、この壁面に平らな瓦を貼り、継ぎ目に漆喰を蒲鉾型に盛り上げて塗る「なまこ壁」だ。
「中町通り」は、その白と黒とのシンプルなデザインの土蔵造りが多く残ることから「蔵のまち」と呼ばれ、現在は伝統工芸品の店と飲食店などが軒を連ねる「観光商店街」として、松本城下町きっての見どころになっている。
「中町・蔵シック館」は、その「中町通り」のランドマークにあたる建物で、観光客や地元の人々の交流や憩いの場として活用されている。
広場にはポンプ式の井戸があり、無料で天然水を汲むことができる。
また4月から12月までは、毎週土曜日の朝9時30分から、地元の農家による新鮮野菜の朝市も開催される。
「中町通り」には、人気のそば処「野麦」のほかにも、洋食の「おきな堂」やカレーの「デリー」といった「食べログ」の常連店が目白押しなので、食事をするならこの通りが期待に添えてくれると思う。
御そば打処 野麦 ☎0263-36-3753
石臼で挽いた地粉のみを使った、地元でもファンが多いことで知られる行列店。
手打ちの九割そばは、驚くほどの細切りで、よく冷やされており、喉越しも抜群。
筆者がこれまで食べ歩いた信州のそば処では、もっとも印象に残っている。
メニューは「ざるそば」オンリーで、一人前1200円・大盛り1400円・半分800円とアルコール飲料。
席は3テーブルしかなく予約はできない。
営業時間は11時30分~14時頃までで、土日は14時30分頃までだが、そばが売り切れ次第閉店になる。定休日は火曜と水曜。
支払いは現金のみだ。
松本城見学にお勧めの車中泊もできる駐車場
最後は松本城界隈の駐車場についてだが、松本城に近い大名町の大手門には3つの市営駐車場があるが、うちふたつは立体駐車場で車高が2メートルまでのクルマしか利用できない。また大型車専用の駐車場は観光バスが優先される。
それに松本城の近くにクルマを停めると、城下町を歩く際にはロスも大きい。
そこでお勧めなのが、城下町の「中町」に面したコインパーキングの「松本商工会議所中町駐車場」だ。
料金は全日9時~19時が20分/100円、19時~9時は30分/100円で最大800円。
駐車場から「女鳥羽川」を渡ったところにある「四柱(よはしら)神社」に近い「大手交番」の横に公衆トイレがあるので、ここでは車中泊も可能。
多目的トイレが洋式になっている。
またすぐ近くには「中町駐車場」もあり、こちらも料金は60分/300円(月極契約者以外約20台駐車可能)、夜間は17時半以降800円で翌朝9時まで利用できる。
周辺には店も多いので、夜の松本を楽しみたい人にも都合はいい。