昭和の歴史的建造物、「黒部ダム」の本質に迫る!【クルマ旅のプロが解説!】

車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、黒部ダムの本当の凄さと見どころ、及びトリビアを紹介しています。

「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊旅行ガイド

この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

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~ここから本編が始まります。~

竣工から半世紀を経て、今なお健在。「黒部ダム」は3つの視点を押さえて行けば、楽しさ倍増!

黒部ダム

「黒部ダム」の筆者の歴訪記録

※記録が残る2001年以降の取材日と訪問回数をご紹介。

2009.07.26
2013.09.27
2024.07.25

「黒部ダム」での現地調査は2024年7月が直近になります。

昭和の歴史的建造物、「黒部ダム」の本質に迫る!

黒部ダム

プロローグ
「黒部ダム」の3つの視点

 

視点① 誕生の背景
なぜ「黒部ダム」は作られたのか

背景は戦後の高度経済成長に伴う、京阪神の深刻な電力不足

「火力発電」が既にあったのに、なぜ「水力発電」を選択?

なぜ近畿から遠い黒部川を選択?

水力発電の仕組みを簡単に

黒部ダムはSDGsの元祖

 

視点② 難工事
「破砕帯」との戦い

黒部の太陽

プロジェクトX

 

視点③ 観光
黒部ダムの必見ポイント

新展望広場特設会場とその周辺

黒部ダムレストハウス

ダム展望台

黒部ダムへのアクセス

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プロローグ
「黒部ダム」の
3つの視点

黒部ダム

「世紀の大工事」と呼ばれ、急峻な岩肌が連続する「立山連峰」の奥地に建造された「黒部ダム」は、「規模」も「予算」も「工期」も、さらには建設工事中の「苦闘」までもが、”破格”と呼ぶに相応しいスケールを誇っている。

ゆえにライターは、「黒部ダム」にまつわる情報を自分の中で咀嚼し、関連性をよく整理してからパソコンに向かわなければ、「黒部ダム」が秘める真の素晴らしさに気づくことすらできないまま、ただ数字で文字数を上乗せし、まるで”金太郎飴”のように、同じ内容を記した記事しかリリースできない。

筆者は「黒部ダム」を語るには、以下の3つの「視点」が必要だと思っている。

●なぜ当時の日本は「黒部ダム」を必要としたのか、すなわち、その時代の日本ではどのような発電所の建設が急務だったのか

●「黒部ダム」の建設中に生じた”想定外の出来事”とも云える”「破砕帯」との戦い”。チームはその難局をどうのようにして乗り越えていったのか

●「黒部ダム」の見どころ。実は「黒部ダム」を訪れても、観光客は「発電所」としての姿を観ることはできない。であれば、何を見て帰ればいいのか

アルペンルート 切符

アルペンルートの通行料金は、一番短い長野県の「扇沢」~「黒部ダム」間でも、ひとり往復3200円、富山県の立山駅から行く場合は16480円と、けして安くはない。

それがツアー料金に含まれている人々は別として

筆者はその金額をあえて支払ってまで、「黒部ダム」に行ってみたいと想っている車中泊旅行者に伝えるべき情報とは、この3つの視点を踏まえたものだと思っている。

 

視点①建造の背景 
なぜ「黒部ダム」は作られたのか

黒部ダム

初めて黒部ダムを目の当たりにすると、そのスケールとロケーションに誰もが息を呑むわけだが、中には「なにゆえこんな秘境に、死者が出るような危険を犯してまで、巨大なダムを作る必要があったのか?」という疑問を感じる人も多いと思う。

黒部ダム

実際に「黒部ダム」の建設工事では、171名の尊い命が犠牲になった。

「黒部ダム」建設構想が持ちあがった時代の日本には、まだ「火力発電所」や「原子力発電所」はなかったのだろうか…

またなぜ大阪の電力不足を賄うのに、遠く離れた「黒部」の地が選ばれたのか…

純真な子供ほど気がつくようなこの疑問は、「黒部ダム」の”存在理由”そのものに起因しており、そこから解説を受けなければ、あちこちにいる「でかっ!」「すごっ!」「やばっ!」を繰り返し発する人間になるだけだ(笑)。

背景は戦後の高度経済成長に伴う、京阪神の深刻な電力不足

太平洋戦争からの復興期にあった1950年代の日本は、関西の主要都市への安定した電力供給を通じて、当時の主要産業である「鉄鋼」「造船」「繊維」などを支える必要性があったが、いっぽうでは深刻な電力不足に直面していた。

1945年以降、日本の電力需要のほとんどは「水力発電」によって賄われていたが、渇水になると各地で停電が相次いだ。

特に1951年の秋以来、慢性的な電力不足に陥っていた関西地方では、高度経済成長期を迎えた1960年代に入ると、工場で週2日、一般家庭でも週3日の電力使用制限が行われ、電力不足は工場のみならず、市民生活にも深刻な影響を及ぼしていたため、電力会社は”待ったなし”の状況にまで追い詰められていた。

出典:サンケイ新聞

ちなみに“家電の3種の神器”と呼ばれた「冷蔵庫」「洗濯機」「テレビ」が一般家庭に普及し始めるのは1954年頃からで、1966年にはさらに“3C”として「カー」「クーラー」「カラーテレビ」が人気を博した。

それも、電力不足に拍車をかけるひとつの要因になったようだ。

「火力発電」が既にあったのに、なぜ「水力発電」を選択?

出典:関西電力

1950年代に、中東で大規模な油田が発見されたことをきっかけに、世界のエネルギーの主役は「石炭」から「石油」へと移行。

日本でも1962年の原油の輸入自由化をきっかけに、「火力発電所」の燃料は「石炭」から「石油」に代わり、それによって電力の柱は「水力発電」から「火力発電」へとシフトチェンジが図られていった。

同時に現在の電気を支えるもう1つの柱である、「原子力発電」が登場してくる。

日本では1955年から法律が整備され、1963年には日本原子力研究所の動力試験炉が、初めて発電に成功している。

しかし

大容量の「火力発電」と「原子力発電」には、出力調整が素早くできない難点があり、季節・時間に応じて流量調整をするには、大貯水池式の「水力発電」以外に、良い選択肢が見つからなかった。

もちろんそこには燃料コストの問題もあるが、日本が「第一次オイルショック」に見舞われたのは、1973年10月~1974年3月で、1963年の「黒部ダム」竣工以降だ。

ただ”結果オーライ”とはいえ、もし順序が逆だったら、その影響はトイレットペーパーの奪い合いどころでは、済まなかったかもしれない(笑)。

なぜ近畿から遠い黒部川を選択?

黒部川

ひとつは北アルプスの3000メートル級の高い山々に挟まれた「黒部峡谷」が、降雨量が多く急峻な河川であることから、「水力発電」に極めて適した条件を備えていることが挙げられる。

すなわち、同じような条件を満たす河川が、近畿周辺には見当たらなかった。

もうひとつは、”ゼロからのスタート”ではなかったことが挙げられる。

近頃はほとんど耳にしなくなったが、「くろよん」という言葉を聞いたことはないだろうか。

黒部第二発電所

「くろよん」は「黒部第四発電所」の略称で、「黒部ダム」とイコールで使われることが多いのだが、「よん」があるということは、「いち」も「に」もある。

黒部ダム

1918年(大正7年)に、黒部川における水力発電の可能性調査を開始した「関西電力」は、1923年(大正12年)には、”宇奈月~猫又間の軌道”の開削に着手し、同時に「日電歩道」の整備も行い、さらなる黒部川源流域への調査を進めていった。

そして1927年(昭和2年)の「柳河原発電所」の操業を皮切りに、1935年(昭和10年)に「黒部川第二発電所」、1940年(昭和15年)には「黒部川第三発電所」と、次々に黒部川沿いに発電所を開設する。

黒部峡谷鉄道

それに合わせて軌道を延長し、機材と人を現場に送り届けてきたのが、トロッコ列車の名前で親しまれている現在の「黒部峡谷鉄道」だ。

「黒部ダム」の完成には、「黒部峡谷鉄道」が大きな役割を果たしており、「立山黒部アルペンルート」からしか見ていないようでは”語るに及ばず”。

しかも話はさらに続く。

出典:富山県地方創生局 観光振興室

このイラストは「黒部ダム」と、「黒部峡谷鉄道」及び「立山黒部アルペンルート」との位置関係を示している。

現在の「黒部峡谷鉄道」は、「宇奈月」~「欅平」間のみの運行だが、実は「黒部ダム」建設当時には、太い赤線で記した軌道が「黒部ダム」まで乗り入れていた。

とはいえ、「黒部ダム」が完成するまでは駅をすぐ近くには作れなかったため、当初は「欅平」と「黒部ダム」の中間辺りに位置する「仙人谷」までしか進めず、そこから先は滑落の危険がある「日電歩道」を歩いていたという。

軌道は「黒部ダム」完成後は一般開放されず、業務用として維持されていたのだが、その約18キロにわたる路線が、いよいよ「黒部宇奈月キャニオンルート」として2025年から観光運行が開始される。

本来は2024年にスタートする予定だったが、能登半島地震による落石で「黒部峡谷鉄道」の「鐘釣橋」が損傷を受けたため、1年延期になってしまった。

このような背景があって、「黒部ダム」建設に必要な大型重機と鉄骨・セメントなどの建材を、現場にトラックで運び込むためのメインルートとなる「大町トンネル(関電トンネル)」の掘削工事が始まる。

筆者はこの黒部川のインフラと開発経験が、さらなる上流域に京阪神の電力不足解消の救世主となる巨大ダムを建設する、意思決定の”決め手”になったと思っている。

水力発電の仕組みを簡単に

出典:電気新聞

ところで皆さんは、「水力発電所」の仕組みをご存知だろうか。

なぜこのような話をするかというと、「黒部ダム」はその象徴的な「えん堤」ばかりに目が行きがちだが、それだけでは発電は行えない。

秘境での「黒部ダム」建設作業がいかに大変なことであったかをより深く理解するには、ダム建設資材以外に、いったいどれだけの機材や建材を黒部源流に持ち込まなければならなかったかを知ることが大切だ。

出典:黒部川電力

「水力発電」は、水が高い所から低い所に落ちる時の落差を利用して、水車と発電機を回して電気を生み出すのだが、水車を回すには、たくさんの水を必要とする。

そのため川の上流に「ダム」を築いて水をせき止め、「取水口」から「導水路」で「水槽」まで水を導き、「水圧鉄管」によって発電所内に落とすことで水車を回し、水車と直結した発電機で電気を作る。

このようにして発電された電気は、「変圧器」を介して「送電線」で「変電所」に送られ、最後は「配電線」を通して家庭や工場に送られてくる。

すなわち、上のイラストに描かれたすべてのものを、「黒部ダム」の周りに作らなければならなかった。

ちなみに、開業当時の「黒部第四発電所」での最大発電量は15・4k万Wで、黒部川下流にある「黒部第三発電所」の9.9万kWに比べると約1.5倍に相当した。

また完成後も改良が重ねられ、現在は33.5万kW、年間発電量に換算すると約10億kWhで、一般家庭約30万世帯分に相当する電力を供給している。

ただ「黒部ダム」完成から60年を経た現在は、市民生活に必要とされる電力は当時と比べ物にならない。

出典:朝日新聞

また平均的な1基で、最大約100万キロワットを発電できる原発に比べると、その発電量は虚しく思えるほど少ない。

そうなると「発電所」としての「くろよん」の価値は、薄れていくいくばかりだ。

ただ筆者は現在の「黒部ダム」は、ここまで述べてきた不可能とも思える数々の課題を粘り強く克服し、実際にその完成にこぎ着けた日本人の努力のリアルな結晶だと考えている。

すなわち「黒部ダム」があり続けることで、我々はその設計から調整を含めて、建設に携わったすべての人々の努力を風化させずに済む。

令和の「黒部ダム」の存在価値は、それだけで十分だと思う。

黒部ダムはSDGsの元祖

少し余談になるが、

「黒部第四発電所」では、雪害防止と自然景観維持の観点から、発電所と変電所を地下150メートルの場所に設けている。

「黒部ダム」がこの秘境で操業を開始したのは1963年。

今から半世紀以上も前のことだが、エコロジーどころか、水俣や四日市で公害が社会問題になる以前に、その発想が建設計画に盛り込まれて実現したというのは、驚くほど先進的な話だ。

ちなみにこれまでに黒部ダムを訪れた観光客は延べ4千万人以上で、毎年100万人を超える人々がこの光景を目にしているが、たぶんその多くは「放水自体が発電とは無関係」なうえに、「なぜ放水が霧状であるか」も知らないと思う。

スプレー放水するのは、水圧で黒部川源流の川底が、滝つぼのように深くえぐられるのを防止するためだ。

これぞまさにSDGs。(Sustainable Development Goals(持続可能な開発))と云わずして、何と云えばいいのか筆者には分からない。

黒部ダムカレー

そういった観点から「黒部ダム」を改めて見直すと、若い人に人気の「ダムカレー」とは一味違う大人の見どころが、次々に浮かびあがってくる。

しかもまだ、ひとつの視点の話が終わったばかりだというのにだ(笑)。

視点2 難工事
「破砕帯」との戦い

黒部ダム 大町トンネル

さて。

万全の準備を終え、1956年8月に始まった工事は、当初は極めて順調に推移し、平均日進10メートル、月進では300メートルを超えて、当時のトンネル掘進の日本記録を塗り替えるスピードで進んでいっだ。

ところが翌年の5月に、「扇沢」の坑口から1700メートルほど掘り進んだ地点で、岩盤の中で岩が細かく砕け、地下水を大量に溜め込んだ「破砕帯」と呼ばれる軟弱な地層に遭遇する。

そのため水抜きに苦労し、足踏み状態は7ヶ月近く続いたが、最後は総力戦で突破に成功、そしてついに「大町トンネル(関電トンネル)」が貫通し、資材と重機が現場に届く。

本格的なダム建設工事が始まったのはそれからだった。

映画「黒部の太陽」

その過酷な状況の中で、けして諦めることなく総力戦での乗り越えた建設チームの姿は、1968年に放映された「石原裕次郎」主演の映画「黒部の太陽」で描かれている。

この話は「黒部ダム」のお約束とも云えるエピソードで、「大町トンネル(関電トンネル)」を走る「電気バス」の中でも紹介され、「破砕帯」があった場所にはブルーの照明が施されている。

黒部の太陽

若き日の石原裕次郎と三船敏郎が共演した、ノンフィクション映画

「もう多分、その映像を見る機会は一生ないのだろう。」と諦めていた石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」が、2013年の春、遂にTSUTAYAの店頭に並んだ。

長年この作品がDVD化されなかった背景には、裕次郎の遺言がある。

『「黒部の太陽」を再上映をする時は、大きなスクリーンで見て貰いたい』という生前からの意向が尊重され、1968年に初上映されて以来、一度たりともレンタルビデオやテレビに出ることはなかった。

ニュースによると、石原プロモーション設立50周年を記念し、今回のDVD化が実現したとのこと。しかも、当時のカメラマンと音声スタッフの監修のもとに、デジタルリマスター処理を施してある。

「黒部の太陽」のあらすじはこちら。

黒部の太陽

実は「黒部ダム建設」の一部始終が記された古い本が、筆者の手元にある。

「黒部の太陽」は、毎日新聞編集委員であった「木本正次」が、1964年の「毎日新聞」に連載した、大町ルートの破砕帯との苦闘を描いた小説で、同年に書籍化され、後に映画とドラマの原作となった。

その影には、黒部第三発電所建設工事を描いた「吉村昭」の「高熱隧道」がある。

またフジテレビでは開局50周年の記念番組として、2009年3月に香取慎吾主演でドラマ化している。

プロジェクトX

出典:NHK

さらに「黒部ダム」はNHKの「プロジェクトX」でも2002年6月25日と、2024年4月27日に2度にわたって放送されている。

ドキュメントの「プロジェクトX」と映画の「黒部の太陽」では、演出が違うのは当然で、筆者がこれまで説明していた内容が、より多く盛り込まれているのは「プロジェクトX」のほうだ。

「黒部ダム」を訪れる日本人にとって一番大事なことは、ここにいたるまでの「黒部ダム」建設のために費やされた膨大な努力を、”ここで頓挫させてなるものか”という全員の強い信念だ。

「破砕帯」自体がエポックメイキングな存在だけに、「黒部ダム」の紹介サイトの中には、そのことを必要以上に大きく取り上げている記事も見受けられるが、それは動画に任せておけばいい話だ(笑)。

視点3 観光
黒部ダムの必見ポイント

出典:黒部ダム

最後に「黒部ダム」の「必見ポイント」を紹介しよう。

ただ前述したように、観光客が見られるのは「黒部ダム」のみで、ダムの下にある「発電所」は通常公開されていない。

加えて放水が行われる期間は、6月26日~10月15日だけだ。

黒部ダムの放水は、発電に関係しない「観光放水」のため、グリーンシーズンにしか行われない。

写真は「雪の大谷」の時期に訪ねた時の様子だが、ゴールデンウィークはまだ黒部湖が凍ったままだった。

新展望広場特設会場とその周辺

出典:黒部ダム

これまでの話の流れを汲む、「破砕帯」突破の記録を含む「黒部ダムの建設ストーリー」が見られるのは「新展望広場特設会場」だ。

そこでは、黒部ダム建設の歴史をパネルや映像で楽しめるほか、「石原裕次郎記念館」から移設された、映画「黒部の太陽」のトンネルセットのレプリカも展示されている。

かつては「黒部ダムレストハウス」の3階にあった「くろよん記念室」で観ることができたが、現在はここに移転している。

そのため2024年7月にそれを見学すべく再訪したのだが、現地で雷を伴ったゲリラ豪雨に見舞われ、「外階段」の出入り口が閉鎖されて、行くことができなかった。

黒部ダム

ただ、「黒部ダム」の外部階段からアクセスする「新展望広場特設会場」の周辺は、もともと黒部ダム建設の歴史を物語るモニュメントがあった。

この「ワダチ」モニュメントは、建設現場を奔走した工員と、24トンのダンプトラックやショベルカーなどの走行軌跡を、コンクリートで型取りしたパネルで、隣には当時の貴重な写真も展示されている。

いっぽうこちらは「コンクリートバケット」で、破砕帯の突破で失った時間を取り戻すため、これで打ち込み場まで1日960回も運搬を行った日があったという。

出典:Go NAGANO

こちらが2016年に、新展望広場下に新たに設けられたレインボーテラス。

観光放水や河床にもっとも近い位置にあり、行くなら大きな2本の虹がかかる午前中がお勧めだ。

黒部ダムレストハウス

黒部ダム

1階に売店、2階はレストランになっており、お馴染みのダムカレーはここで食べられる。

黒部ダムカレー

なおかつては「黒部ダムレストハウス」の3階にあった「くろよん記念室」は、飲食が可能なフリースペースになっているので、疲れたらここで一休みするといい。

分かりにくいため意外な穴場だし、ここからも黒部ダムが見下ろせる。

黒部ダム無料休憩室

また建設工事で最大の障害となった「破砕帯」の水は、今なお枯れることなく湧き続けているが、現在は制御されて訪れる観光客の喉を潤している。

「電気バス乗り場」に続く長い通路から、ダムの「えん堤」に出たすぐ脇にあるので、知っていないとまず気づかない。

ダム展望台

黒部ダム

「黒部ダム」の全景が撮れるのは、「ダム展望台」からになる。

黒部ダムがどれくらい「秘境」にあるのかを体感したいなら、ここはマストだ。

黒部ダム

ただし「ダム展望台」に至るには、220段の階段を登りきる必要がある。

しかも苦労して登ってきた割には、他には見どころもなく、中高年には疲労に対する見返りは少ない。

ゆえに時間に余裕がないのであれば、いきなり60段の階段を降りて、黒部ダムの「えん堤」を目指してもいいと思う。

黒部ダム

ここからでも黒部ダムは十分見られる。

黒部ダムへのアクセス

扇沢駐車場

さて。

これで、「黒部ダム」を観るために必要な準備は整った。

だがそれだけでは、実際に「黒部ダム」に行くことは不可能だ。

個人の場合は、「黒部ダム」が途中にある「立山黒部アルペンルート」の、長野県側のゲートウェイにあたる「扇沢駅(バスターミナル)」まで自力で行く必要がある。

ただし夏休みともなれば、早朝から駐車場は満車となり、約8キロ離れた「臨時駐車場」に誘導されることも珍しくはない。

駐車している人の中には、「黒部ダム」の先の「室堂」まで足を伸ばしている人もあるので、駐車場の回転は悪いと思う。

だが、我々にはそれを回避する術がある。

以下の記事には「扇沢」での車中泊事情についても詳しくまとめている。

またさらに下の記事では、「黒部ダム」がある「立山黒部アルペンルート」を詳しくガイドしているので、ぜひ合わせてご覧いただきたい。

出典:立山黒部アルペンルート 公式サイト

これを見れば「黒部ダム」は、「立山黒部アルペンルート」の一部に過ぎないことがよく分かると思う。

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