「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
お勧めは高遠城にまつわる歴史とエピソードを展示している「高遠町歴史博物館」。
筆者の高遠の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2015.03.06
2015.04.08
2015.10.24
2017.04.16
2021.03.08
※「高遠」での現地調査は2021年3月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年9月に更新しています。
高遠城の歴史を知れば、高遠観光は10倍おもしろくなる!

高遠城の概要
一般的に「高遠城址」といえば「さくら祭り」でお馴染みだが、日本100名城に名を連ねる「高遠城」は、「諏訪湖」から国道152号を35キロほど南に下った「伊那市」に残る、かつての「高遠氏」の居城だ。
築城年代は不明だが、「三河」と「信濃」に通じる交通の要衝に位置する「高遠城」は、平山城でありながら三方を河川に囲まれた天然の要害に建っていた。
そこに目をつけたのが、甲斐の「武田晴信(のちの信玄)」だ。
戦国時代の1547年(天文16年)、「高遠氏」は「武田軍」の侵攻を受けて滅亡。
その後「高遠城」は大規模な改修を受け、「武田氏」の近親者が城主に座る、南信濃支配の重要拠点となる。
明治を迎え、廃藩置県の際に取り壊された高遠城跡の一帯には、約1500本もの「タカトオ コヒガンザクラ」の木が植えられ、それがいつしか城跡全体を覆うようになり、話は冒頭に戻る。
だが歴史好きにとって、「高遠城」で本当に大事なのは、その間の時代の出来事だ。
実は「戦国時代末期」から江戸時代の「高遠城」には、日本史に名を残す著名人ゆかりのエピソードが宿っている。
戦国時代
~武田氏の栄枯衰退の跡~
前述した通り、「高遠城」は戦国時代に甲斐から信濃及び三河・遠江(とおとうみ)へと進出するための、重要な拠点と目されていた。
戦国時代初期の「高遠城」は、「小笠原氏」「村上氏」「木曽氏」と並んで”信濃四大将”に挙げられた「諏訪氏」の支族・「高遠氏」の居城だったが、「武田晴信」の諏訪制圧の策略にまんまと乗せられた「高遠氏」は、1545年(天文14年)に裏切りにあうかたちで「晴信」に攻め落とされる。

出典:NHK
その後「晴信」は、速やかに大河ドラマ「風林火山」の主人公になった、軍師で築城の名手と謳われた「山本勘助」に命じて、「高遠城」を信濃と前線基地とすべく大改修を行っている。
城趾に残る「勘助曲輪跡」はその名残だ。
そして「信玄」は、1573年(元亀3年)にこの「高遠城」から遠江の「三方ヶ原(静岡県浜松市)」に進軍し、若き日の「徳川家康」を完膚なきまでに撃破した。
しかしその直後、「信玄」は病に倒れ、この世を去る。
「信玄」亡き後の1575年(天正3年)に勃発した「長篠の戦い」では、後継者となった「武田勝頼」率いる無敵の騎馬隊が、織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に敗れ去り、歴史の潮目が変わる。
1582年(天正10年)、今度は「織田軍」が「武田氏」の領内へ侵攻し、「高遠城」を包囲した。
「武田氏」の衰退が顕著になる中、時の「高遠城」城主・「仁科盛信」(信玄の5男)は、「織田軍」相手に最後まで奮戦し、城を枕に壮烈な討死を遂げる。
この戦いを最後に、「勝頼」は「織田軍」の甲府侵攻に備えて、平城の「躑躅ヶ崎館」を捨て、韮崎の山上に築いた「新府城」で再興を期すが、流れは変えられず、最期は「新府城」を自ら焼き払い、自刀して果てた。
これにより「武田氏」は滅亡。天下布武を目論む「信長」の視界が一気に開けた。
江戸時代前半
~保科正之登場~
「徳川家康」が隠居し、二代将軍「秀忠」が後を継いで、太平の時代を迎えた1617年(元和3年)、高遠藩主の保科家に、江戸からとんでもない”贈り物”が届けられた。
それは「秀忠」と乳母の侍女「お静」との間に生まれた、男子の「幸松(ゆきまつ)」だった。
当時は「大奥」の秩序を守るため、正室・側室以外を母に持つ子は、養子に出すのが通例とされていた。
しかも「秀忠」の正室は、「織田信長」の姪の「お江(ごう)」。

出典:NHK
「お江」と云えば、2011年に放送された大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の主人公で、「上野樹里」が演じていたのを覚えている人も多いだろう。
「秀忠」は叔父譲りで気性が激しい「お江」に、「幸松」の存在が知れればどうなるかわからないと憂慮し、「武田信玄」の次女で武田の知将「穴山梅雪」の妻であった「見性院(けんしょういん)」に「幸松」を預け、養育を頼んだ。
とはいえ、建前は養子でも「家康」の孫、そしてのちに徳川三代将軍となる「家光」の異母弟となれば、もはや主賓以上の扱いだったに違いない(笑)。
「保科家」で「正之」の名を与えられた「幸松」は、藩の将来を嘱望され、「高遠城」の三の丸の新居で母と暮らし、養父となった「保科正光」の家臣から英才教育を受ける。
そして1631年(寛永8年)、亡くなった「正光」の家督を継ぎ、晴れて高遠藩3万3千石の藩主となった。
やがて「正之」は三代将軍となった「家光」の重用を受け、会津藩23万石の基礎を築くわけだが、その時から幕末まで脈々と受け継がれていく江戸幕府への忠誠心が、最後は戊辰戦争の火種になるから、歴史というのはわからない。
なお、「保科正之」がらみのエピソードは、高遠そばの記事にも記している。興味があればそちらもぜひ。
江戸時代中期
~江島生島事件~
「江島生島事件」とは、徳川7代将軍「家継」の時代に、将軍の生母「月光院」の右腕と呼ばれた「大奥」御年寄の「江島」が、山村座の役者「生島新五郎」と密通している容疑をかけられ、それが発端で生じた大規模な「大奥風紀粛正事件」のこと。
今でも「大奥」といえば決まって登場してくる話だが、その理由はどうやら「冤罪」であることに起因しているようだ。
「大奥」の最高位に取り立てられていた「江島」は、その才気煥発さによって、「大奥」の経済全般を掌握し、金の出し入れや呉服購入等における権益を、思いのままに支配できる大実力者になっていた。
当時の江戸城「大奥」には、「天英院派」と「月光院派」の二大勢力があったことから、事件は「月光院」の失墜を狙った「天英院」の陰謀説が有名だが、かたやでは膨れ上がった大奥の粛清を目論む、幕臣の偽装行為だったという説もある。
もちろん「江島生島事件」自体は「高遠」と何ら関係ないのだが、その主犯とされた「江島」が、どういうわけが「高遠」に遠流(おんる)されてきた。
当初は死罪を減じて島流しの裁決が下されたが、「月光院」が減刑を嘆願したため、「高遠藩」藩主の「内藤清枚(きよかず)」「頼卿(よりのり)」親子にお預けとなった。
前述の「幸松」の時もそうだが、「高遠」には時折江戸から、とんでもない”贈り物”が届くらしい(笑)。
ただ「大奥」は三代将軍「家光」のために作られたものだけに、この話にもどこか不思議な縁があるように思えなくはない。
実は復元された「絵島囲み屋敷」が、「高遠」に残されている。
当初、「内藤家」は「江島」の扱いにピリピリしていたという。
罪人とはいえ、江戸城「大奥」で権勢を振った元の大年寄りに粗相があれば、お家断絶の原因にもなりかねない。
そのため最初は「高遠城」から一里も離れた、「非持村火打平(ひじむらひうちだいら)」に幽閉していたのだが、「江島」が「高遠」に来て三年目に「家継」が世を去り、”暴れん坊将軍”でお馴染みの、8代将軍「吉宗」の時代に「内藤家」が嘆願した結果、囲い屋敷周囲での散歩や、城の女中らに作法を指導することが許されたという。
「江島」は「高遠」で61歳の生涯を閉じるが、彼女を厄介者扱いせず、誠実で血の通った受け入れをしたことは、「高遠」の人々が後世まで誇れる美談だと思う。
高遠町歴史博物館
その「絵島囲み屋敷」は、「高遠町歴史博物館」の隣にある。
「高遠町歴史博物館」は、古代・中世から現代に至る「高遠城」と城下町高遠の歴史、また文化や人物などにスポットをあてた展示になっており、これまで紹介してきたエピソードに関連する資料や、ゆかりの品も見られる。
また桜シアターでは満開の桜の映像も鑑賞できるので、悪天候時や違うシーズンに訪ねても損はない。
ただ、オフィシャルサイトくらいはあってもいいのでは…
せっかくのコンテンツを持ちながら、このサイトでは”お話にならない”。
伊那市立高遠町歴史博物館
☎0265-94-4444
大人400円
9時~17時(最終入館16時30分)
月曜定休
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