車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、木曽路に関所と代官が置かれた「福島宿」と、その周辺の見どころ及び車中泊事情を詳しく紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。
~ここから本編が始まります。~
「福島宿」は、天領(幕府直轄地)の木曽で「関所」と「代官」が置かれていた要衝の地。
筆者の福島宿の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2013.09.21
2015.04.12
2020.11.01
2022.11.22
2024.09.15
「福島宿」での現地調査は2024年9月が最新です。
「福島宿」周辺の見どころ&車中泊事情【目次】

木曽福島のロケーション
「木曽路」の呼称で親しまれている「木曽街道」は、江戸時代の初期に整備された「五街道」のひとつで、江戸の「日本橋」と京都の「三条大橋」を内陸経路で結ぶ約530キロの間に、69の宿場町が置かれていた「中山道」の一部だ。
その「中山道」の中でもっとも難所が多かったのが、南の「馬籠」から北の「贄川(にえかわ)」にいたる区間で、約74キロの間に11もの宿場が設けられていたことからも、その道の険しさが伺える。
「福島宿」はその「木曽路」の中ほどに位置し、江戸時代には「関所」と「代官」が置かれていた。
「木曽路」の宿場町は、南の玄関にあたる「馬籠宿・妻籠宿」と、北の玄関とも呼べる「奈良井宿」が有名で、ツアーでは割愛されることの多い「福島宿」だが、クルマ旅ではむしろ欠かすことのできない「木曽路」の観光スポットだと思う。
筆者がそう考える理由は、以下の3つ。
❶他にはない「関所」や「代官屋敷」という興味深い史跡が残されていること。
それついては、後ほど詳しく説明する。
❷「御嶽山」「開田高原」と抱き合わせると、終日観光ができること。
「御嶽山」「開田高原」の主な見どころは、以下の記事に詳しくまとめているが、「福島宿」の周辺には「旅の駅」に適した道の駅も存在している。
❸「権兵衛トンネル」で、南信州の「伊那・駒ヶ根」と通じている。
中央アルプスに阻まれ、かつて「木曽」は「伊那・駒ヶ根」から近くて遠い場所だったが、「権兵衛(ごんべえ)トンネル」のおかげで、特に「木曽福島」へのアクセスは格段に向上している。
権兵衛トンネルとは…
「権兵衛トンネル」は、国道361号にある長野県塩尻市と上伊那郡南箕輪村(飛地)を木曽山脈を貫いて結ぶ、全長4467 メートルのバイパス道路。
木曽地域と伊那地域の往来を支えていた、かつての国道361号は、道幅が狭くてカーブの多い峠道で落石も多く、冬期は除雪ができず通行止めになっていた。
それを解消するため、2002年度の供用を目指して、1993年に新トンネルの掘削工事が開始される。
しかしもろい地質などで難工事となり、2003年にようやく貫通。さらに3年を経た2006年2月に、念願の開通を迎えた。
実際に緑の「木曽路」と、赤の南信州の幹線道路を走ってみると、塩尻で合流するまで両方を行き来できる横道は皆無に等しく、まるで川を渡れる橋の如く、「権兵衛トンネル」のありがたみが実感できる。
実はこのトンネルには、300年以上前からの悲願が込められている。
谷が狭く水田の少なかった木曽谷の米不足を解消するため、江戸時代の1696年頃、古くからあった伊那と木曽を結ぶ最短ルートでありながら、急峻で狭く細い道でしかなかった「鍋掛峠」を、馬が通行できるように尽力した人物の存在が、この地の記録に残されている。
それが「古畑権兵衛」氏で、トンネルの名前は彼へのリスペクトからつけられた。
福島宿の概要と見どころ
「福島宿」は、「馬籠宿・妻籠宿」あるいは「奈良井宿」と違って、『ここが宿場町だよ』と誰にでも分かる1本道の観光ストリートが残されておらず、見どころは大きく分けて、「福島関所資料館」「山村代官屋敷」「上の段」の3ヵ所に分散している。
加えて、観光バスが何台も停められる大きな観光駐車場がないことが、団体ツアーに敬遠される理由なのだろう。
実はその背景には、「福島宿」が持つ特殊な地形が大きく関係している。
江戸幕府の天領であった木曽地域の中で、「代官」が置かれていた「福島宿」は、当然ながら政治経済の中心地だったが、そこで働く人々の家を揃えられるほどの広い平野はなかった。
代わりにあったのは、急な坂と崖。
ゆえに庶民の家は両側の山の中腹に建ち並び、川沿いには「崖屋造り」と呼ばれる住居が並んで、木曽路の宿場町の中でも特異な景観を描き出していたという。
その当時の様子を再現しているのが、「福島関所資料館」にあるジオラマだ。
この時代の「中山道」は、「福島宿」にさしかかると、左右を山に挟まれた木曽川岸の高台を通るため、他に抜け道がなく、避けて通るには木曽川の中を進むか、無理をして山の上を歩くより方法がなかった。
ゆえに、ここに関所が設けられたわけだ。
ただ「福島宿」は、昭和期の大火で町屋があらかた焼失している。
しかし住民たちは、同じく大火に見舞われた後、以前の復元を図った「馬籠宿」とは違う近代化の道を選んだため、昔ながらの町並みは「上の段」の一部の地区にしか残っていない。
ただそのおかげで、町内には大きなスーパーマーケットやガソリンスタンドが作られ、今は我々のような車中泊の旅人も助かっている。
福島関所資料館
さきほどのジオラマの通り、当時の「中山道」は高台を通っており、国史跡に指定された関所跡には石碑があるだけで、その隣に建てられた「福島関所資料館」に、関連する古文書や用具が展示されている。
「福島関所」は、箱根・新居・碓氷と並び、天下の四大関所の一つに数えられ、中山道の要衝として約270年間「入鉄砲・出女」などを取り締まっていた。
入り鉄砲・出女とは
「入り鉄砲」とは、大名などが江戸で謀反を起こすのを未然に防ぐために、江戸に持ち込まれる鉄砲などの武器類を規制することを意味し、「出女」は人質として江戸に住まわせていた、大名の妻や娘が国元に逃げ帰ることによって、幕府に対する謀反が起こらないようにすることを意味する。
展示物には花押が記された「通行手形」なども展示してあり、識者が見ればその価値が分かるのだろうが、さすがに筆者にはマニアックすぎた(笑)。
筆者が見て楽しかったのは、こちらの「土蔵ギャラリー」だ。
こちらに展示されていたのは、江戸時代の「観光ガイドブック」。
これは京都の様子が描かれたものだが、左側に描かれているのは「本願寺」。
たぶん世界遺産に登録されている「西本願寺」のほうだと思うのだが、かなり精密でほとんど現在と変わらないように見える。
「本願寺」は、自由奔放な「浄土真宗」を説いた「親鸞」を慕う人々が集まる大寺院で、当時から人気があったに違いない。
ちなみに「京都」は筆者の自宅から1時間もかからない場所なので、「木曽」よりも取材がちょっと進んでいる(笑)。
「五街道」が整備された太平の世を迎え、各地の有名な寺社仏閣では、御師と呼ばれる人たちが参拝者を集うためのPRツールとして、旅籠から報酬を得て江戸の町民向けにこういうものを作っていたという。
ただ、せっかく「関所」ゆえに手元に集まり、残せるものがあったのだから、「福島宿」でも「箱根」のように関所跡をリニューアルし、動画を交えてそれらを観光客に分かりやすくプレゼンしてくれれば、史跡「福島関所」の存在価値がもっと高まるような気がした。
福島関所資料館
〒397-8588
長野県木曽郡木曽町福島5031番地1
☎0264-23-2595
入館料:おとな300円
※2館共通券(福島関所資料館+山村代官屋敷)は、おとな550円
8時30分~16時30分
12月~3月は火曜定休
少し離れた下の通りに無料駐車場あり
いっぽう、こちらは「福島関所資料館」の隣に建つ「高瀬家資料館」。
「高瀬家」は木曽の代官「山村氏」に仕えたのが始まりで、以来お側役・砲術指南役・勘定役等として、幕末まで代官を仕えた木曽の「名家」だ。
坂の下にある石碑は、熊の胆嚢(たんのう)を原料に使用し、徳川家にも献上された秘薬「奇応丸(きおうがん)」を、かつて「高瀬家」が製造販売していたことから立てられたもの。
また「高瀬家」には、「馬籠宿」で本陣・庄屋・問屋を兼ねていた「島崎藤村」の実家から姉が嫁いでおり、小説「家」のモデルとなったことから、「藤村」本人もここに滞在したり、息子を養子にするなど関わりが深く、ゆかりの品々も数多く展示されている。
高瀬家資料館
〒397-8588
長野県木曽郡木曽町福島関町4788
☎0264-22-2802
入館料:おとな200円
8時30分~17時
不定休
いっぽうこちらは、「福島関所」見学者用の無料駐車場で、上に見えているのが「高瀬家資料館」だ。
収容台数は16台だが、ここは「福島宿」観光の拠点にできるうえに、トイレがあって24時間出入りができるので車中泊も可能。ウォシュレットは多目的トイレに用意されている。
もし時間切れで2日続けて「福島宿」が見たいという人は、「道の駅 木曽福島」で車中泊するよりは便利だと思う。
山村代官屋敷
続いての見どころは、江戸時代に木曽の代官を世襲してきた、尾張藩重臣「山村家」のお屋敷だ。
「福島関所」の駐車場から約700メートルのところにあり、徒歩でも行けるが、ご覧のように屋敷の前には、無料の駐車スペースも一応用意されている。
ちなみに時代劇でお馴染みの「代官」とは、幕府の直轄領を統治し、税金などの徴収をつかさどる役人のこと。
そのため「福島関所」の関守も「山村家」が務めていた。
「山村氏」は、古来より木曽地方に勢力を持っていた「義仲」を祖とする有力土豪「木曽氏」の家臣で、「木曽氏」は「秀吉」の時代に下総に移封された後に改易となるが、「関が原の合戦」で東軍についた「山村氏」は、その戦功により徳川幕府から木曽の代官職に任ぜられ、「木曽氏」の館跡に代官所を開いて屋敷とした。
江戸時代に「代官」を世襲できたのはレアケースで、「山村家」の歴代当主は、幕府と尾張藩のみならず、領民からも信頼が高かったようだ。
現存しているのは下屋敷の一部と庭園のみだが、建物内には「山村家」の文化資料、著書、調度品などとともに、復元された饗応料理のレプリカが展示されている。
また敷地内にある山村稲荷のご本尊とされるキツネが、ミイラと化して祀られており、それも申し出れば見せてもらえる。
キツネのミイラは日本にはこの一体しかないと云われているが、ちょっと不気味なお姿なので、写真はあえて載せずにおこう。
山村代官屋敷
〒397-0001
長野県木曽郡木曽町福島5808-1
☎0264-22-3003
おとな300円
※2館共通券(福島関所資料館+山村代官屋敷)は、おとな550円
8時30分~16時30分
12月~3月は木曜定休
駐車場あり
上の段
「福島宿」往時の面影が見られる唯一のスポットで、千本格子の町家・なまこ壁の土蔵・水場などが残されている。
とはいうものの…
「馬籠・妻籠宿」あるいは「奈良井宿」に比べると、その規模は比較にならないほど小さく、どちらかに足を運ぶなら、ここへは無理して行くことはないと思う。
ただ「福島宿」で昼時を迎えるなら、いい食事処がある。
和庵 肥田亭
「上の段」にある古民家を改築した和風レストラン。中は天井が高く広々してお
り、囲炉裏もあって雰囲気がいい。しかもランチは値頃でおいしかった。
2015年当時は、これで1500円。
和庵 肥田亭
〒397-0001
長野県木曽郡木曽町福島5248
☎0264-24-2480
昼/11時30分~13時30分(LO14時)
夜/17時30分~20時30分(LO21時)
※夜は前日までの予約が必要
火曜定休
なお「上の段」にも、10台ほどが停められるトイレ付きの無料観光駐車場があり、「肥田亭」まで徒歩1分ほどで行ける。
ただし駐車所への入口が狭く、回転半径の大きなクルマは通るのに苦労しそう。
角を落として入りやすくしてくれているのだが、入口は入庫は左折、退出は右折になるので、ほとんど意味がない(笑)。
筆者のナローのハイエースは入庫できたが、「福島関所」の駐車場から約800メートルなので、心配なら歩いていくほうが無難だと思う。ただ道幅には多少余裕があるので、バックで出入りすればなんとかなるのかな。
「福島宿」周辺の車中泊事情
ここまで長々と「福島宿」の見どころを解説してきたが、実際に周ってみると所要時間は半日ほどで収まるはずだ。
そこで、冒頭に『福島宿はクルマ旅ではむしろ欠かすことのできない「木曽路」の観光スポット』と紹介した理由の、『「御嶽山」「開田高原」と抱き合わせると、終日観光ができる』という話を思い出していただきたい。
そうすると、木曽福島周辺で車中泊をする理由が生まれ、次の2つの車中泊に適した道の駅を紹介する甲斐もある。
まず「福島宿」をメインにしたい人にお勧めなのは、「道の駅 日義木曽駒高原」だ。
逆にどちらかといえば「御嶽山」「開田高原」がメインなら、「道の駅 三岳」のほうががいいと思う。
ただこのエリアには、無料でキャンプができることから、キャンパーに絶大なる人気を誇る「木曽駒冷水公園」がある。
自炊がしたい人と、知人・友人と一緒に木曽路を訪れる人にはここがベストだろう。
「福島宿」周辺の見どころ
最後は、「御嶽山」「開田高原」を抱き合わせられるほどの時間はないが、「福島宿」だけだと時間が余るという人のために、「福島宿」から近い2つの観光スポットを紹介しよう。
寝覚の床
「福島関所」から約10キロ、南に下った国道19号沿いにある奇勝で、木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然の造形が美しい。
古くから「中山道」を訪れた文人・歌人に親しまれ、松尾芭蕉の「ひる顔にひる寝せふもの床の山」の句碑が残る。
現在は国の名勝に指定され、「日本五大名峡」と「木曽八景」に名を連ねている。
義仲館
平安末期の武将で、従兄弟の源頼朝より早く平家打倒に立ち上がり、一時は征夷大将軍に任命された「木曽義仲」に関する展示を行っており、文献などの歴史資料のほか、人形などを使ってその生涯を若者向けに紹介している。
開館は1992年だが、2021年7月にリニューアルされ、展示が現代風に刷新された。
なお「木曽義仲」の墓地も近くにある。
〒399−6101
長野県木曽郡木曽町日義290-1
☎0264-26-2035
おとな300円
10時~17時
月曜定休(祝日含む)
木曽義仲アラカルト
「木曽義仲」は幼名を駒王丸(こまおうまる)といい、父の「源義賢(みなもとのよしかた)」は、「源頼朝」の父「源義朝(みなもとのよしとも)」の弟にあたる。
生まれは東国の武蔵国だが、2歳の時に父が兄「源義朝」に討たれ、幼い「義仲」は木曽に逃れ、母と知り合いだった「中原兼遠(なかはらかねとお)」に庇護された。
「木曽義仲」の名は、この時に「源」姓ではなく「木曽次郎」と名乗ったことに起因しており、後に「木曽義仲四天王」と呼ばれる家臣との絆も、木曾の地で育まれた。

出典:戦国ヒストリー
ちなみに、妾となる「巴御前(ともえごぜん)」は「中原兼遠」の娘だったとも云われているが、その実在は確認されておらず、「平家物語」の中の想像の人物である可能性もあるようだ。
さて。
「木曽義仲」が、少年から青年へと成長する間に政局は大きく変動し、都では「平清盛」率いる「平家」が「源氏」を抑えて勢力を増し、政治の主権を握りつつあった。
そして1180年、「後白河法皇」の皇子である「以仁王(もちひとおう)」の令旨(りょうじ)を受けて、「木曽義仲」は平家打倒の兵を挙げる。
信州で挙兵した「義仲」は、1183年に「越中俱利伽羅峠(くりからとうげ)」で平家の大軍を壊滅させ、破竹の勢いで連戦連勝を飾って入京する。
その勢いから「旭将軍」とも呼ばれ、征夷大将軍にも任じられるが、実直すぎるがゆえに「後白河法皇」に疎まれ、最後は「源頼朝」が差し向けた「義経・範頼」軍に、現在の滋賀県大津にあたる「粟津ヶ原」で敗れて、31歳の短い生涯を閉じた。

出典:NHK
近年、その「木曽義仲」の生き様を描いたのは、2022年に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」だ。
「木曾義仲」役を俳優の「青木崇高」が好演したのだが、ドラマでは「平家物語」に著された『戦好きで粗野な田舎人』ではなく、むしろ『誠実で義に厚い人物』として描かれていた。
実際の歴史では、家臣達は絶望的な状況でも裏切ることなく、最期までともに戦い抜くことを選んでおり、信頼の高い大将だったことがうかがえる。