この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

大人の旅人に伝えたい、小樽の素顔
小樽の見どころダイジェスト【目次】
最初に知りたいのは、的確な概要
貴方は「小樽」と聞いて、まず何を連想するだろう?
「運河」「北のウォール街」「ガラス」「オルゴール」そして「寿司」…
確かにこの街には、観光客を惑わすキーワードが多すぎる。そしてその説明は、どれもが大人の旅人にすれば物足りない。
筆者が知る小樽の町は、「レトロ」とか「グルメ」といった軽々しい形容詞ではなく、もっと深いところで日本人の心を揺さぶる魅力を秘めている。
小樽の町をスマートに観光する秘訣は、まずこれらのキーワードを精査して、自分なりの優先順位をつけることだ。
ガイドブックが似たような写真を並び立て、いくら多くのページを割いてくれても、観光する側には時間と体力、そして財布の中身に限りがある。
だからこそ、最初に的確な概要を知りたいのだ。それによって、この港町で車中泊をするべきか否かも決まってくる。
というわけで、まずは小樽の町の生い立ちを探ることから始めよう。
「小樽運河」や「北のウォール街」は、札幌開拓使の副産物
1869年(明治2年)、新政府は蝦夷地を北海道と改称し、札幌に開拓使を置いた。その結果、小樽の港は北海道開拓のための海陸連絡基地となる。
小樽運河は、小樽港の荷揚量が多くなったため、沖合いで貨物船から荷受けした艀(はしけ=船幅が広く、底の平らな荷受け船)が、直接倉庫の近くまで航行できるよう建設された水路だった。
しかし戦後になって港に埠頭が整備され、運河はその使命を終える。結果、周辺には煉瓦や石造りの倉庫群が数多く取り残されてしまった。
それから約20年の歳月を経た1986年(昭和61年)、小樽市は小樽運河の南側部分を半分の20メートルに削り、幹線道路を開通させることを決定する。
だが工事が進み、古い倉庫が取り壊され始めると、「埋めたてか」「存続か」の大論争が勃発。
それが「商都」から「観光都市」へと生まれ変わる引き金となった。
取り壊しを免れた倉庫の多くは、外観を残して中をリノベーションし、レストランやショップに生まれ変わっている。
小樽市の歴史的建造物に指定されている「北のウォール街」も、小樽運河と同じ運命を辿った全盛期の「名残」だ。
札幌の人口を凌ぐと云われた大正時代末期には、日銀小樽支店・三井銀行・安田銀行・第一銀行・拓銀・道銀をはじめとする20ものレトロな石造りの銀行が、1本の目抜き通りに面して立ち並んでいたという。もちろんこちらも倉庫と同様、現在は多くが店舗や博物館として再利用されている。
最後は北海道最古を誇った旧国鉄手宮線の線路跡をご紹介。
ここも石炭や海産物の積み出しで賑わった往時を忍ばせる遺構のひとつで、今は線路上を散策できる観光名所になっている。
つまり小樽観光のひとつの切口は、商業都市としての栄華を誇った当時の歴史探訪であって、その経緯も知らず、レトロな建物でショッピングやご当地グルメに興じるのとは、「似て非なる」振る舞いといえる。
小樽のガラス産業を育んだのは、鰊(にしん)漁
江戸時代から昭和中期まで、北海道の日本海側沿岸では鰊(にしん)漁が盛んに行われていた。
ちなみに、♪ニシン来たかと かもめに問えば 私ゃ立つ鳥 波に聞け チョイ!♪でお馴染みのソーラン節は、漢字で鰊漁唄と書く。
もちろん小樽も鰊で潤っていた町だが、前述の札幌開拓使により、いち早く文明開化の波が訪れる。
大阪でガラス作りを学んだ浅原硝子の創業者が、小樽で製造所を開業したのは1901年(明治34年)。
まずは漁で使用する石油ランプの製造を始め、1910年(明治43年)からは、定置網漁の浮きに使うガラス玉の製造も手がけるようになる。
この浅原硝子が、後にあの有名な北一硝子になる。
技術革新で石油ランプは電球に、浮き玉はプラスチック製にとって代わられ、小樽のガラス産業は窮地を迎えるが、グラスやコップ、あるいはインテリアなどの工芸品作りにシフトし、運良く観光という「水」にも恵まれたことで、伝統技術は今日まで命をつなぎとめている。
ちなみに、小樽で古くからオルゴールが作られていたという事実は見当たらない。
この町にオルゴールのイメージを付加したのは、1912年(大正元年)に開業した日本最大級の品揃えを誇る「小樽オルゴール堂」で、店内には25,000点以上とも云われる数のオルゴールが並んでいる。
小樽寿司屋通り
さて、最後はお寿司の話。
余談になるが、筆者は1997年から週刊少年マガジンに連載されていた「将太の寿司」という漫画を通して、偶然にも小樽が寿司処であることと、町の中に「寿司屋通り」という筋が存在することを知っていた。
調べてみると意外なことに、小樽の寿司が全国的に知られるようになったのもその頃のようだ。
きっかけは、おたる政寿司の大将が、市内にある4軒の寿司屋仲間(日本橋、寿司・和食しかま、おたる大和家、町の本店)に声を掛け、1987年7月に魚供養感謝祭を開催したことにあるという。
それが現在の「寿司屋通り」に至るわけだが、おりしも時期は小樽運河の散策路が完成した翌年で、小樽が観光都市として脚光を浴びるタイミングと合致する。
現在、小樽の町には約130の寿司屋が軒を連ねているそうだが、「寿司屋通り」は小樽運河の散策路やメインストリートの堺町本通りとは、少し離れた場所にある。
とことん「小樽の寿司」にこだわるのなら、ここまで足を運ぶといい。
小樽市民御用達の飲み屋街は「花銀」
「花銀」とは「花園歓楽街」に通じる「花園銀座商店街」の略称。
今どき「歓楽街」なんて名前が残っているのも、レトロが売りの小樽らしいといえばそれまでだが(笑)、少し旅慣れた人ならお気づきの通り、小樽運河付近や堺町本通りは観光客相手の店が多い。
地元のサラリーマンが喉を潤し、お腹を満たしているのは、「寿司屋通り」に通じる「花銀」らしい。

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