この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

「立山黒部アルペンルート」と「黒部峡谷鉄道」が作られた目的は同じ
今でこそ、年間何万人もの観光客が利用するアルペンルートと黒部峡谷鉄道だが、元をたどれば「同じ場所」を目指して作られた「資材輸送経路」であったことをご存知だろうか。
この2つの観光ルートが持つ真の魅力は、その背景と経緯抜きには語れない。
アルペンルートと黒部峡谷鉄道の「深い関係」【目次】
両者はともに「黒部川源流部」へダム建築資材と作業員を送り込む輸送ルート
両者はともに「黒部川源流部」へダム建築資材と作業員を送り込む輸送ルート
このマップで分かるように、アルペンルートの関電トンネルと黒部峡谷鉄道は、ともに「黒部川源流部」へ、ダム建築資材と作業員を送り込む輸送ルートとして築かれたものだ。
そしてその背景には、急速に電化が進む日本の社会と、それに対応するための電源開発という避けては通れぬ命題があった。
背景は大阪の深刻な電力不足
関西電力のホームページによると、当時は猟師すら足を踏み入れない秘境と呼ばれた黒部峡谷が秘めた水力発電の可能性に注目し、その調査が始まったのは大正7年。
まずは宇奈月温泉から現在のトロッコ列車の軌道建設がスタートし、同時期に写真の日電歩道が開削され、源流部の調査が進められていったという。
日電歩道は、大正14年頃に左岸の絶壁を削って作られた幅50センチほどの道。測量隊は大きな荷物を担ぎ、約17キロに及ぶこの道を命がけで往復したそうだ。
それだけでもビックリだが、現在は幅80センチに広げられ、登山者が欅平から黒部ダムまで歩行できるよう整備されているというから、もっと驚く(笑)。
なお、宇奈月からの電源開発の経緯は、関電サイトの「黒部開発の苦闘とその全貌」に詳しく記されているので、興味があればそちらを参照していただきたい。
さて。宇奈月から始まった黒部の電源開発は年々進み、昭和22年には柳河原発電所・黒部第二発電所・黒部第三発電所が稼働するまでに至った。
そして、その直後の昭和24年に「黒四開発構想」が発表される。
計画は昭和26年の電力再編成で誕生した関西電力(株)に引継がれ、昭和31年に建設工事が始まるが、背景には「逼迫して後戻りのできない大きな理由」があった。
本格的な戦後の復興期にさしかかった昭和30年当時の日本は、産業の発展に発電が追いつかず、特に関西では、工場で週2日、一般家庭では週3日の計画停電を実施せざる得ないほど、深刻な電力不足に陥っていた。
黒部の太陽
しかし、黒部第四ダムの建設計画は、工事現場がこれまでよりもさらに奥地であることに加え、ダムそのものの規模が大きく、既存のルートで建築資材と作業員を運送することは事実上不可能だった。
そこで、ダム予定地まで大町トンネル(現在の関電トンネル)を掘ることを決断する。それが現在の立山黒部アルペンルートの「扇沢~黒部ダム間」だ。
昭和31年から始まった黒部ダムの建設は、当時の金額で513億の巨大投資と、延べ1,000万人に及ぶ人員を要し、実に7年の歳月を経て完成した。
その間、大町トンネルの掘削(くっさく)を阻んだ「破砕帯」にどれけ苦労を強いられたかは、木本正次原作の小説「黒部の太陽」で克明に描かれ、映画化・ドラマ化されたことで、多くの国民が知るところとなった。
またその工事はNHKのプロジェクトXでも取り上げられ、2002年の「第53回NHK紅白歌合戦」で、極寒の黒部ダムの地下道から、中島みゆきが生中継で主題歌の「地上の星/ヘッドライト・テールライト」を歌唱したのは記憶に新しい。
立山黒部アルペンルート 車中泊旅行ガイド
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