この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
ペリーが来航した目的は、米国の捕鯨船乗組員の安全確保と、食料や燃料の補給
冒頭の胸像は1854年(嘉永7年)に、アメリカ艦隊を率いて下田に来航したペリー提督が、その第一歩を印した地に建てられ、「下田条約」調印の地で知られる了仙寺の方向を向いている。
まずは、下田とペリーの関係を簡単に説明しよう。
この年再来日したペリーは、幕府と協議している「日米和親条約」の交渉過程で、下田港が開港地として提示されると、さっそく調査船を派遣した。
その報告を受け、下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど、ペリーが幕府に要求した条件を完全に満たしていることに大きな満足を得たという。
それからまもなく、「日米和親条約」の締結により即時開港となった下田港に、ペリー艦隊が次々と入港する。
その後下田では、了仙寺を舞台に「日米和親条約」を補足する「下田条約」の協議が継続して行なわれた。
ペリーが帰国した後に送り込まれた外交官のハリスにより、悪名高き「日米修好通商条約」が締結されるのは、それから4年も後のことだ。
ということは、ペリーの目的は「通商」ではなかったことになる。
ではペリーの真の目的とは?
19世紀前半のアメリカは世界最大の捕鯨国だった。
この当時は、灯油はもちろん、石鹸・ローソク・潤滑油などにも使用できる鯨油の人気は高く、大西洋では大量の捕鯨が続いていた。
しかし乱獲によって鯨が激減したため、アメリカは北太平洋へ進出を始める。
ペリーはそこで操業するアメリカの捕鯨船乗組員の安全確保と、食料や燃料の補給地を日本に求めたいと考えたのだ。
もちろん、アヘン戦争で清がイギリスに敗北し、列強がこぞって中国に進出する中、アメリカもそれに乗り遅れまいとし、日本に足場を確保しようとしたのも理由のひとつだったが、自国で南北戦争が勃発したため、それはほとんど役目を果たすことはなかった。
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