この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
円高ドル安で、不平等だったのはアメリカ側
ペリー提督率いる黒船艦隊の2度目の来航により、横浜で「日米和親条約」が締結され、それによって即時開放となった伊豆半島の下田で、その詳細事項が詰められることになった経緯は、以下の記事で詳しく触れた。
下田の交渉場所となった了仙寺は、徳川家康の時代から将軍家との関わりがあり、別格の地位を有するお寺だったが、その名が歴史の表舞台に登場するのは、この一件からになる。
さて、ここで「日米和親条約」について、簡単に復習しよう。
といっても、そんなに詳しく学校で習ったのかさえも覚えてないほど、古い話ではあるけれど(笑)。
日米和親条約の概要
「日米和親条約」は、1854年(安政元年)に日本とアメリカとの間で結ばれた条約で要点は以下の通り。
●日本はアメリカに対して燃料や食料を提供する
●船や乗務員を保護する
●下田・箱館(函館)の2港を開港する
●領事の駐在を認める
●日本が他の国と結んだ条約の中で、有利な条件は自動的にアメリカにも与える
実はペリーは前年の1853年(安政元年)に日本に来航し、、大統領の開国・通商を求める親書をもって幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が1年の猶予を求めたために、いったん香港まで退去している。
そして翌1854年2月に再来航し、江戸湾へ入港した。
幕府は現在の横浜開港資料館に応接所を設置し、約1ヶ月にわたる協議の末、全12箇条からなる日米和親条約を締結した。
2年越しで推し進められた「ペリーの執念」は、かくして横浜で結実したわけだが、細かな付帯事項の協議は、下田に会場を移して続けられることとなった。
下田条約の概要
●アメリカ人の移動可能範囲は、下田より7里、函館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁じる
●アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺を開放し、米人墓所は玉泉寺に置く
●アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁じる
条約に従い、開港後の下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。
ただし「必要な品物その地相叶うべき事は、双方談判の上、取りきめ候事」(第六条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると、実際には貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等が欠乏所で売られた。
貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始されたわけだ。
しかもそこでは役人の監督下で、国内の売値よりもずっと高値をつけた品物が売られ、日米通貨の交換比率も、米貨を安く評価して交易が行われた。
まさしく「円高ドル安」。
おまけに幕府は、欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった。
しかし、まもなく駐米大使として下田に乗り込んでくるハリスが、日産を再建したゴーンが如く、その豪腕を発揮して「大どんでん返し」を巻き起こす。
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