この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
吉田松陰が今なおリスペクトされ続ける理由が、下田にある。
下田にゆかりのある歴史上の人物といえば、たぶん「ペリー」と答える人が多いのではないだろうか。
「日本開国の舞台」と呼ばれるほどの歴史を刻む町だけに、本当は日本人の名前が筆頭にあがって然るべき…
大河ドラマを見過ぎな「攘夷かぶれの、おっちゃん(笑)」は、そんなふうにも思うのだが、実はそれに相応しい人物がいる。
その名は長州藩士「吉田松陰」。
彼は大胆不敵にも、共の金子重輔とともに岸から小舟で黒船に乗り込み、ペリーにアメリカまでの密航を直談判する。
しかし最後まで聞き入れられず、下船後二人は自ら幕府に身柄を委ねた。
その後吉田松陰は萩に送還され、松下村塾を通し、明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与える。
松下村塾のそばに、この石碑が立つのはそれゆえだが、この後に締結された「日米修好通商条約」をめぐって、松蔭は幕府を痛烈に批判。
その結果、時の老中首座・「間部詮勝(まなべ あきかつ)」の暗殺を企てる。
暗殺は実行されなかったが、それがもとで松蔭は大老・井伊直弼が仕掛けた「安政の大獄」にハマり、江戸に身柄を送られる。
しかし取り調べでも松蔭は臆することなく幕府の政策を非難し、潔く散って逝った。
この記事で、吉田松陰の話をこれ以上詳しく書くわけにはいかないので(笑)、その生きざまに興味があれば、以下のページをご覧いただきたい。
吉田松陰が密航を決意するに至った理由
人生をかけた密航に打って出る以上、松蔭先生もある程度の準備をしていた。
下田にはその遺構が今でも残されているが、それを紹介する前に、
松蔭は、なぜ、そうまでして外国を見てみたいと思ったのだろうか…
この「動機」を知らなければ、松蔭ゆかりの地を見ても感動するには至らない。
長州藩の命で海防と西洋兵学に関わり持つようになった吉田松陰は、江戸で列強の武力に精通し、合理的で先進的な思考性を持つ佐久間象山(さくましょうざん)に師事する。
その知識や見識を学ぶとともに、海岸防備の実態を知った松蔭に、さらなるインパクトを与えたのが、浦賀に現われた黒船だ。
佐久間象山が唱える「開国攘夷」に共鳴する松蔭は、「黒船を作れる造船技術と、船の操縦方法を外国から学び、日本の国力を上げなければならない」との想いから、藩を通じて幕府に働きかけるが、いっこうに話は前に進まない。
そこで、それを自ら確かめ、学ぶ最後の手段として「密航」を決意する。
下田に残る吉田松陰ゆかりの地
資料によっては、5つも6つも紹介しているようだが、松蔭マニアは別として(笑)、一般教養として知っておきたい遺構は以下の2つでいいと思う。
吉田松陰寓寄処(よしだしょういんぐうきしょ)
下田に到着後、ひどい皮膚病を患っていた吉田松陰は、治療のために蓮台寺温泉の村民しか入浴できない共同湯に忍び込む。
それに気づいた医者の村山行馬郎(むらやま ぎょうまろう)が、松陰を匿ったとされる屋敷が、蓮台寺温泉の一画に今でも残されている。
柿崎弁天島
「踏海の朝」と名付けられたこの銅像は、吉田松陰と金子重輔(しげのすけ)が、ペリーを頼って密航を試みた弁天島の横の広場にある。
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