この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

観光客が一番聞きたいのは、「広大な敷地のいったいどこを見れば、金沢城を見た気になれるのか?」だ。
筆者は記録が残る2010年以降、10年間の間に4度金沢城を訪ねてきた。
還暦を過ぎた今でこそ、「現存十二天守」はすべて、「日本100名城」はその約7割に足を運ぶまでに至ったが、大学は「世界史」で受験したため、それまでは「前田利家」がどういう武将であるかさえも知らなかった。
「観光客」の定義がどうこうなんて話をする気はない。
ただ「嫌いじゃないけど、特に歴史やお城が大好き!というわけではない旅人」が、見て楽しめる「お城のガイド」というものが、どこへ行ってもなかなか見つからないのは、紛れもない事実だ。
まして金沢は「城下町」が売りの観光地であって、姫路のような「お城中心の町」とは違う。
建造物としての「お城」に興味を持つ人ばかりが、ここに足を運んでいるわけではないのだ。

特別お城好きでもない観光客のための、金沢城公園の見どころ&歩き方ガイド【目次】
金沢城の歴史を簡単に
最初に、「このくらいは知っておいても、バチは当たらない」という金沢城の歴史を記そう。
金沢城のルーツは、「加賀一向一揆」の拠点だった浄土真宗の寺院「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」。ただ寺とはいえ、それは石垣に守られた戦のための要塞だった。
「加賀一向一揆」を滅ぼしたのは織田信長。「尾山御坊」の跡地に「金沢城」を築き、佐久間盛政を据えるが、「本能寺の変」後に勃発した「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に討たれ、金沢城には能登の領主で秀吉の家臣となった前田利家が入城する。
利家は1592年(文禄元年)から金沢城の改修工事を始め、曲輪や堀を拡張するとともに、5重の天守や櫓を建造する。
残念ながら天守は1602年(慶長七年)に焼失したが、金沢城は1873年(明治6年)まで前田家の居城として、加賀百万石の拠点となった。
ちなみに大名庭園「兼六園」が誕生するのは、加賀藩5代藩主・前田綱紀の時代以降。綱紀が造営した蓮池庭を前身に、代々の藩主が改修を加えて現在に至っている。
現在の金沢城の大半は、平成以降に再建
金沢城は明治の廃城令を免れ、破却や解体を受けることなく「陸軍省の財産」となるのだが、1881年(明治14年)の火災で、石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失してしまう。
そのため跡地には、太平洋戦争が終わるまで陸軍第9師団司令部が置かれ、戦後は金沢大学の丸の内キャンパスが建てられた。
転機が訪れたのは、金沢大学の移転が決まった1995年(平成7年)。
その翌年に、石川県は国から「金沢城址」を取得し、「金沢城址公園」としての整備を始める。
2001年(平成13年)に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋の復元が完了し、「金沢城址公園」は「金沢城公園」に改称された。
現在の「金沢城公園」に広大な芝生広場があるのは、このような経緯による。
復元された金沢城は、2006年(平成18年)に日本100名城に選定され、石川県と金沢市は、金沢城址を中心とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産登録に向けた手続きに着手するが、この段階では継続審議が適当と判断され、今日に至っている。
金沢城の復元工事はその後も継続的に行われ、2006年~2014年にわたって続いた第2期復元整備事業では、石川門の保存修理、橋爪門櫓門の復元整備が行われている。
また2015年(平成27年)には、玉泉院丸跡に玉泉院丸庭園と玉泉庵がオープンし、新たな観光名所となった。
観光客にお勧めしたい、金沢城公園の見どころ
さて、本論はここからだ。
まず金沢城公園は、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓への入館が有料(大人320円、65歳以上無料<要公的機関の証明書>)になっている。
ただ、入場料と云っても320円なので、それが「中に入る入らない」の決め手になるわけではないと思う。
要は「中にお城マニアでなくても、見て感心・感動できるものがあるのかどうか」だが、スケールを感じる外観は無料で見ることができるので、さほどお城に興味がないのなら、取り立てて中まで見る必要性は感じない。
加えて、金沢城公園は東京ドーム約5個分の広さを有しており、有料施設を入れると見学の所要時間が3時間近くになる。
兼六園とあわせて最低4~5時間、このあたりに時間が割り当てられる人はいいが、筆者は普通の旅行者には、もっといい時間の使い方があると確信する。
そこで、場内の随所で見られる「金沢城のトリビア」を紹介しよう。
金沢城のトリビア1 「鉛瓦」
金沢城の特徴は、櫓や門に見られる白漆喰の「海鼠(なまこ)壁」と、屋根に白い「鉛瓦」が葺かれた、見目麗しき外観にあるとされている。
鉛には、銅を加えると強度・硬度・耐酸性が高まる特性がある。
「鉛瓦」はそれを生かした頑丈な瓦と云われているのだが、実は金沢城の「鉛瓦」には別の見方も存在する。
それは戦となって籠城を強いられた際に、鉛瓦を溶かして鉄砲の弾丸を作るのが目的だったという説だ。
信憑性を疑う学者もいるようだが、江戸幕府から見た加賀藩は、強大な資金力を持つ「外様大名」だけに、万一の備えをしていたとして不思議ではない。
金沢城のトリビア2 「石垣」
金沢城は石垣が場所によって違うことから、「石垣の博物館」と呼ばれている。
石垣の違いは作られた時代や工法によるものだが、 金沢城の場合は2種類の戸室石を使用し、赤っぽい「赤戸室」と青っぽい「青戸室」を意識的に配置した、デザイン性の高い石垣に仕上げられている。
観光客にお勧めしたい、金沢城公園の歩き方
この話は3つのケースを想定して紹介する。
1.兼六園と金沢城公園だけを、2~3時間で観光したい
筆者はこのケースがもっとも多いと思っているのだが、基本的には「石川橋」を通って、「金沢城公園」と「兼六園」を周ることになる。
この場合、観光の比重はおそらく兼六園に置かれると思うので、金沢城公園では移動距離を減らし、足腰の疲労を抑えることが秘訣になる。
具体的には、上のマップの白い部分を見てまわるくらいでかまわない。
石川門と河北門をくぐり、その周辺にある「金沢城公園のトリビア」を見て周れば、そこそこ「お城めぐり」をした気分になれるはずだ。

2.金沢城公園から城下町方面に通り抜けたい。
これは健脚な人か、真ん中に宿泊を挟んで1泊2日で金沢を観光する場合になると思うのだが、金沢城公園から行きやすい城下町は、「主計(かずえ)茶屋街」と「ひがし茶屋街」だ。
ただかなり距離を歩くことになるので、金沢城公園は1周するより、さきほどと同様、「石川門」「河北門」を抜けて、最後は「大手門」から城外に出るのがお勧めだ。
ちなみに現代では「石川門」が正門のような役割を担っているが、前田利家が生きていた当時は、「大手門」が金沢城の正門だったと云われており、石垣には、城内最大の鏡石が組み込まれている。
なお通り抜けてしまう場合は、帰路は1回あたり200円で乗れる、この周遊バスを利用するほうがいいだろう。
3.金沢城公園をじっくり見たい。
それには、お城マニアを含めてボランテァイア・ガイドの利用がお勧めだ。
石川門をくぐったすぐの休憩所に、金沢城公園と兼六園を案内してくれる「城と庭のボランティア」と、外国語対応の通訳ボランティアガイドの受付がある。
嬉しいことに、いずれもガイド料は無料。ただしガイドに伴う経費(交通費・入場料・入館料・昼食代など)は要負担。
筆者の金沢城公園ガイドは以上でおしまい。どのサイトにも書いてあるような、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓などの説明は、あえてしない。それは下のオフィシャルサイトをご覧いただくのが一番だ。
金沢城公園 オフィシャルサイト
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