25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、郡上八幡の観光と車中泊に関する情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づき、全国各地の「クルマ旅にお勧めしたい観光地」を、「車中泊旅行者目線」からご紹介しています。

~ここから本編が始まります。~
いろいろな意味で日本らしさが感じられる、落ち着いた佇まいの古き良き町

郡上八幡の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2025.07.20
郡上八幡での現地調査は2025年7月が最新です。
郡上八幡の見どころ&車中泊ガイド

郡上八幡のロケーション

「中美濃」と呼ばれる岐阜県中央部に位置する「郡上八幡」は、古くから郡上郡の政治・経済の中心地として栄えた城下町で、正確に云うと郡上市八幡町。
現在は「郡上八幡」という地名は存在せず、慣習的に城下町一帯をそう呼んでいる。

自然豊かな「ひるがの高原」エリアに隣接していることから、近年はスキー・スノーボードをはじめ、長良川のアウトドアを楽しむ人々からも親しまれている。
近くを「東海北陸自動車道」が通っているため、東海・近畿からのアクセスに恵まれており、「高山」や「白川郷」にも行きやすく、まわりに道の駅が数多く揃っている点も車中泊旅行者にはありがたい。
郡上八幡の主な見どころ

多くの紹介サイトに書かれている通り、郡上八幡の見どころが、お城を含めた城下町にあるのは間違いない。
「重伝建」に指定された古い町並みと、「日本三大盆踊り」のひとつとされる「郡上おどり」が残る「郡上八幡」には、近世以来の城下町の姿が保全されており、その端正な景観から「奥美濃の小京都」とも呼ばれている。

ただしお城自体には、築城の経緯から歴代の城主、また舞台となった戦などにも、これといった有名なエピソードはなく、云ってみれば”平凡な山城”だ。
しかし、
城がなけば城下町は形骸化し、城下町としての特色を失えば、伝統文化も色褪せる。
つまり、城下町らしさと伝統文化を保ち続けるために、時代を超えて「郡上八幡城」は再建され、今も大事にされているわけだが、この町が素晴らしいのは、その三つ巴の関係を住人がよく理解し、町ぐるみでキープできていることだ。
それを理解したうえで町を歩くと、「郡上八幡」の本当のおもしろさが見えてくる。
ゆえに象徴とも云える「郡上八幡城」には、町を観てから行っても遅くはない。
ということで、先に見逃してほしくない場所から紹介しよう。
郡上八幡博物館

クルマで走りやすくて分かりやすい「殿町通り(県道320号)」沿いにあり、大正時代に建てられた旧税務署の外観をそのまま残した、一際目立つレトロな建物が「郡上八幡博物館」だ。

「博物館」の名前からすると、いささか小さく思えるが、館内には「郡上八幡」に残る伝統文化の情報が的確に盛り込まれ、まさに『郡上八幡観光の出発地』と呼ぶにふさわしいミュージアムになっている。
有料ではあるが、「郡上八幡」でお金を払ってでも観るべき場所はここだろう。

その最大の見ものは、1日4回実演される「郡上おどり」だ。
「郡上おどり」の詳細は後述するが、十曲十種のおどりがすべて、国重要無形民俗文化財の指定を受けている”伝統芸能”で、その生の踊りを若いお姉さんのユニークな解説とともに、”かぶりつき”で見られるのだから値打ちがある(笑)。
本来は夏に開催されるものだが、ここでは年間を通じて実演している。

また「郡上八幡城」についても、ここで概要を掴んでおくと見どころがよくわかる。
郡上八幡博物館
☎0575-65-3215
おとな540円
9時~17時(郡上おどり期間は18時まで)
普通車20台(1回500円)
入館者も同様

博物館とは50メートルほど離れた「八幡公民館」前にあり、城下町観光にはこの駐車場がベストポジション(詳細は後述)になると思う。
3つの伝統的水利用施設

「郡上八幡」は三方を山に囲まれた水の豊かな地で、市街地を「吉田川」と「小駄良川(こだらがわ)」のふたつの清流が流れている。
ここでは江戸時代からその豊富な水資源を活かした町づくりが行われており、独自の水利用施設が今も数ヶ所残されている。
❶宗祇水(そうぎすい)

小駄良川と吉田川の合流点付近に位置し、1985年(昭和60年)に「宗祇水(白雲水)」として、名水百選第1号の指定を受けた湧水地で、「水舟」と呼ばれる独特の水利用形態が、昔から受け継がれている。

「水舟」とは、湧水や山水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽のうち、最初の水槽を飲用や食べ物を洗うのに使い、次の水槽で汚れた食器などを洗った後、そこで出たご飯粒などの食べ物の残りを、そのまま下の川や池に流して、飼っている鯉や魚の餌にし、水を自然に浄化還元していく仕組みのこと。

ゆえに「郡上八幡」で見る鯉は、完全なるメタボ体型だ(笑)。

そして「宗祇水」の名は、室町時代の「古今伝授」の古事に登場する、室町時代の連歌の達人「飯尾宗祇(いいお そうぎ)」が、この湧水の傍らで庵を結んで愛用したことに由来している。
「古今伝授」とは

「古今伝授」は、平安時代に編纂された「古今和歌集」の解釈に関する秘伝を、師から弟子へと口伝や書物で伝えていくことを意味する言葉で、とりわけ室町時代に中美濃を支配していた「東常縁(とうのつねより)」から、さきほどの連歌師「宗祇」への「古今伝授」が有名とされる。
ちなみに「古今和歌集」は、905年(延喜5年)に「紀貫之」ら4人の選者が天皇の命を受けて編纂した最初の勅撰和歌集で、現在も残る「百人一首」の約1/4は、1000年以上前に詠まれたその「古今和歌集」の作品になる。
古文のテストで、和歌の意味を問う問題に苦戦を強いられた人も多いと思うが、
実は平安時代でも、上流階級の教養とされた和歌の”バイブル”「古今和歌集」を、注釈なしで正確に理解するのは困難だった。
ゆえにその解釈の伝授を受けられるのは、特権階級でも優れた才を持つ選ばれた人間だけに限られており、和歌の世界に格式を重んじる風潮を生み出すきっかけになったとも云われている。
「東常縁」は、11代320年間にわたって「郡上八幡」を治めてきた、「東氏」の第9代当主だった人物で、この地と深い繋がりを持っている。
だが戦国時代を迎えると、「東常縁」の子孫「東常慶」は、居城の「篠脇城」と吉田川を挟んだ対岸の牛首山に、のちの「郡上八幡城」となる砦を築いて戦った、義理の息子の「遠藤盛数」に滅ぼされてしまう。
「遠藤盛数」はもともと「東氏」の血縁で、この戦いは「遠藤盛数」が実兄を「東常慶」に暗殺された弔い合戦で、一種の”内乱”に近いものだったようだ。
「遠藤」氏の支配下になった後も、「古今伝授」を語り継ぎ、「東常縁」の偉業が色褪せないようにしたのは、自身の先祖に近い人物であったからかもしれない。
ただこの伝承は、「郡上八幡」がその時代から、”みやこびと”の知るところであったことを周囲に知らしめる重要な証だ。
『郡上八幡を、そこいらの田舎と一緒にするなよ!』
成り上がりの「信長」や「秀吉」のプレッシャーに常々晒されている「遠藤盛数」の胸中に、そんな想いがあったとしても不思議ではあるまい。
❷やなか水のこみち

さて次は、由緒とは無縁のお気軽フォトスポットを紹介しよう。
どことなく京都を思わせる、涼やかで風情のある「やなか水のこみち」は、1988年に作られた現代の名所で、「八幡」にちなんで、長良川と吉田川から集めた8万個の玉石が敷き詰められている。

さすがの「郡上八幡」も、用水の利用が減り、生活排水による汚れが目立つようになってきたことから、水環境の保全を目的に、”水のまち”を再整備する活動が進められているようだ。
「奥美濃の小京都」を自負する「郡上八幡」だが、ここは同じ京都でも「東映太秦映画村」みたいで、どことなくロケセットっぽい(笑)。
ただ、これはこれでありだと思う。
新しいとは云え、本筋から逸れない新名所をうまく作ったものだと感心した。
なおインスタ映えを狙うなら、こんなふうに人が来ない超早朝に行こう。
日中にこんな写真が撮れたら、それこそロケだ!(大笑)。
❸いがわ小径

「いがわ小径」は、「郡上八幡旧庁舎記念館」のすぐ裏手を流れる、「島谷用水」沿いの長さ約120メートル、幅1メートルほどの道、というより縁に近い。
写真写りは抜群だが、入口はちょっと分かりづらいかもしれない。

なぜならここは、「やなか水のこみち」と違って、今でもリアルな暮らしの場として使われており、用水の途中には共同洗濯場が3ヶ所あり、近所どうしの社交の場にも使われているという。

人がすれ違うのがやっとという細さなので、大きなカバンは持参しない方がいい。
なお川には色鮮やかな錦鯉が悠々と泳いでおり、多くの人が立ち止まってそれを見ているので、ここも人の少ない時間に行くほうがいいだろう。
さて。
これらの伝統的水利用施設を、もっとも生き生きと伝えているのが、県や市の行政サイトではなく、民間企業の「大和ハウス工業」というのがまたおもしろい(笑)。
CMもこのくらい手間とお金をかければ、宣伝ではなくドキュメントになる。
ギャラの高そうなタレントを揃えた「ダイワマン・シリーズ」より、筆者はずっといいと思うし、西島秀俊ならこういうシナリオにもうまく対処すると思う(笑)。

出典:進風舎
なお、3つの伝統的水利用施設の場所は上の通り。
前述した「郡上八幡博物館」の駐車場(1回500円)にクルマを停めて、まず「郡上八幡博物館」を観た後、筆者がつけた番号順に訪ねて歩くと、ロスが少なく他の主要な見どころも外さずに済む。
なおこの時のポイントは、「郡上八幡城」を切り離して考えること。
別記事に記したように、「郡上八幡城」は到着した日もしくは翌日の朝一番に行くのがお勧めだ。
郡上おどりとは…

出典:郡上市
「郡上おどり」で、当記事がお知らせしたいのはその歴史。
すなわち「郡上おどり」のルーツとされる、平安時代発祥の「念仏踊り」が、なぜ「郡上八幡」に定着し、独自の進化とともに400年以上の歴史を持つに至ったのか…
実はそのキーパーソンとなったのは、初代「郡上藩主」の「遠藤慶隆(えんどう よしたか)」と云われている。

「郡上八幡城」を築城し、それまでの支配者だった「東氏」を倒して、初代「郡上八幡城主」となったのは、父の「遠藤盛数」だったが、その死後に家督を継いだ長男「慶隆」は、「本能寺の変」の後、天下を掴みつつあった「羽柴秀吉」によりこの地を召し上げられてしまう。
しかし「慶隆」は紆余曲折の末、東軍の武将として1600年(慶長5年)9月の「関ヶ原の合戦」で功を上げ、同年11月に晴れて初代「郡上藩主」として「郡上八幡城」に返り咲いた。
「念仏踊り」が「郡上八幡」に定着したのは、江戸時代を迎えたちょうどその頃だ。
新たな藩主となった「慶隆」は、領民の融和を図るため、藩内各地の踊りを城下に集めて奨励した。
特にお盆の4日間は、身分の隔てなく無礼講で踊ることを認めたため、誰でも参加できる踊りとして広まっていった。
このあたりの話は、徳島・鳴門の阿波踊りの発祥と共通している。
つまりは、町も文化も領主次第…
という典型的な話だが、歴史オタクにとっておもしろいのはここからだ(笑)。

驚いたことに、「遠藤家」の家系図によると、「遠藤慶隆」は「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕え、24万石の初代「土佐藩主」に登り詰めた武将「山内一豊」の、妻「千代」と血を分けた実の兄になっている。
とすれば、時勢を読み解き、適切な手を打てる才覚を持ち合わせていることにも納得が行くし、「一豊」と同様に「家康」についたことにも合点がいく。

少し話が逸れたが、「千代」に関する詳しい話は、下の「郡上八幡城」の記事の中に、この像の謂れとともに記載している。

ちなみに筆者が「郡上八幡」を訪ねた2025年7月20日(日)は、20時から「郡上八幡旧庁舎記念館」前の広場で「郡上おどり」が開催される日だったが、さすがに真夏の日中に城下町を観光して、夜に踊りを体験するのは、体力的に厳しく、また車中泊予定地の道の駅の混雑状況を考えても、諦めて正解だったと思う。
夜の「郡上おどり」を観たい人は、そのためのスケジュールを組むほうがいい。
食品サンプルの聖地

さて。
近頃はあまり見なくなった気もするが、「郡上八幡」がこういった「食品サンプル」の”聖地”であることをご存知だろうか。

ここまで来ると完全にアート。

もはやサンプルの領域を超えている。
ただ「郡上八幡」を「食品サンプル」の”発祥地”と呼ぶのは尚早だ。
当初は「料理模型」と呼ばれていた「食品サンプル」が、大正時代の終わり頃に日本で生まれたのは確かなようだが、その”発祥地”については諸説あり、未だ決着はついていないらしい。
ただ「郡上八幡」には、”聖地”と呼ぶにふさわしい物語がある。

主人公は、「郡上八幡」出身の実業家「岩崎瀧三<いわさきたきぞう>(1895~1965年)」。
幼少期に、灯したキャンドルのロウが偶然水溜りの上に落ち、梅の花のような形になったのを見て感動を覚えたことが、大人になって「食品サンプル」づくりの扉を開くきっかけだったという。
その後「岩崎」は、1932年(昭和7年)に大阪市北区に「食品模型岩崎製作所」を設立し、当時出回り始めていた「食品サンプル」の事業化に初めて成功する。

出典:元祖食品サンプル屋
第1号の食品サンプルとなった料理は、オムライスだった。
ことの発端は、オムライスを提供し始めたレストランから寄せられた相談で、当時の日本人の多くは、オムライスがどのような料理なのかを知らなかったため、その展示サンプルの制作を打診されたという。
「岩崎」は精巧な展示品を作ることができれば、このようなニーズを持つ洋食店だけでなく、「食品サンプル」そのものの市場が広がることを確信していた。
終戦から10年を経た1955年、「岩崎」は故郷の役に立ちたいとの想いから、「郡上八幡」に岐阜工場を建設する。
それをきっかけに、「岩崎」のもとで働き、技術を学んだ人たちの独立によって「郡上八幡」に多くの「食品サンプル工房」が誕生し、岐阜県は国内の「食品サンプル」の約60%を生産するまでに至る。
ここで着目すべきは、『技術が受け継がれ、地場産業として定着した』ことだ。
それは「岩崎瀧三」が生まれ育った、「郡上八幡」の風土と無関係ではあるまい。
江戸時代から、競争よりも共存の思想が育まれてきたこの町には、「食品サンプルの町」になる土壌が備わっていたのだろう。

「食品サンプル」ビジネスはさらに進化を極め、創作活動として「食品サンプル」づくりを体験しに「郡上八幡」を訪れる人が、年間1万人以上を数える、町の人気観光コンテンツに成長している。

そして八幡町の新橋の近くに残る「岩崎瀧三」の実家には、「食品サンプルの創始者 サンプル王 岩崎瀧三の生家」の看板が掲げられ、まさしく”聖地”となっている。
そんな「岩崎瀧三」の熱い想いは、以下のページでもっと詳しくご覧いただける。
これって、「朝ドラ」になってもよさそうな話だよね(笑)。
郡上八幡の駐車場事情

これまで紹介してきた見どころは、すべて徒歩圏内にある。
ゆえに体験ものをやらなければ、ゆっくり見て回っても半日で収まるし、特に暑い時期は体力の面でもそうするほうがいい
ということは、
どこにクルマを置いて観光するかが大事になるが、結論ははっきりしている。

得てしてこういう場合は、町の奥までクルマでは行かないほうがいい(笑)。
この空き待ち渋滞になっているのは、マップの「郡上八幡旧庁舎記念館」横の駐車場で、郡上おどりのメイン会場はもちろん、3つの伝統的水利用施設にも近い一等地のように見えるが、前の道は路地のような狭さで、周囲も通行量が多く、身動きが取れなくなる可能性が高い。

筆者がお勧めするのは、マップにブルーラインを施した「殿町通り(県道320号)」沿いのエリアだ。

規模の大きな駐車場が複数あるうえに、さきほどの事情を知らない旅行者は、より先を目指して進もうとするため、多少遅く来ても停められる可能性が高い。
しかもここを起点にすると、紹介した見どころをロスなく観て周ることもできる。
公共の観光駐車場は以下の2つ。
郡上八幡博物館 駐車場

普通車1回500円
平面でゲートなし、20台
8時30分~17時
営業時間外は無料で出入りも可能なので、車中泊が可能(確認済み)。

博物館とは50メートルほど離れた「八幡公民館」前にある。

また「郡上八幡博物館」の売店横の路地に、公衆トイレがある(中は和式)。
郡上八幡城下町プラザ駐車場

普通車1回550円
平面でゲートなし、24台
8時30分~17時
夜間の利用は未確認
ただし、いずれも「徹夜踊り」期間中は料金が変更になる。
加えてもうひとつ、両者の間に民間のコインパーキングがある。
殿町駐車場

普通車1回500円(入庫から24時間)
平面でゲートあり、33台
24時間
※お盆シーズンは別料金
ここはゲートがあるので、キャブコンの入庫は難しいと思うが、「郡上八幡博物館 駐車場車」が満車の時は車中泊にも使える。
なお、より詳しい情報を希望される方は、こちらで確認を。ただ筆者のサイトではないので、更新状況等はわからない。
郡上八幡の車中泊事情

マップを見れば分かる通り、「郡上八幡」の周りには「道の駅」が密集している。
加えて書いてきたように、「郡上八幡」の観光は、夜の「郡上おどり」に参加しないのなら半日、「食品サンプル」づくりなどの体験をしたとしても、終日あれば十分なので、無理に市街地で車中泊をする必要性は感じない。
ゆえに、「郡上八幡博物館」から約11キロ・15分ほどのところにある、日帰り温泉が併設した「道の駅 古今伝授の里やまと」での車中泊がお勧めだ。
ただし「道の駅 古今伝授の里やまと」は、高原エリアに近いわりに、標高が288メートルしかなく、夏は思っているほど涼しくはない。
そのため「郡上おどり」が開催される時期は、少し遠くなるが、標高約810メートルの高地にある「道の駅パスカル清見」での車中泊が快適だ。
あとはどこも大差はないが、「道の駅 大日岳」だけは駐車場の傾斜がきつすぎて、車中泊には適さないので気をつけよう。
なお、どうしても「郡上八幡」の町中で車中泊がしたい場合は、前述した「殿町駐車場」か、『山内一豊と妻の像』がある「城山公園」の向かいに用意された無料駐車場なら可能だ。

「城山公園」の駐車場の敷地にも、和式の公衆トイレがある。
郡上八幡 車中泊旅行ガイド

車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
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