この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
奥の細道は、幕府の密命を受けた隠密の旅だった?
松尾芭蕉【目次】
松尾芭蕉のプロフィールをサクッと紹介
松尾芭蕉は、「俳諧」を芸術の域にまで高めた江戸時代前期の文化人で、「芭蕉」は1680年頃に名乗った「俳号」、本名は松尾宗房(むねふさ)と云う。
1644年に伊賀国の農民として生まれ、10代の後半から当時でも有名だった俳人・北村季吟(きぎん)の下で俳諧を学ぶ。
その後に江戸出て、武士や商人に俳句を教えるかたわら、数々の作品を発表するが、その中でも傑作とされる句が「古池や 蛙飛びこむ 水の音」だ。
さらに芭蕉は東日本に旅に出て、「奥の細道」という紀行文を発表するが、移動の速さや資金の面から、実はその正体は隠密で、「奥の細道」は幕府の密命を受けた、極秘調査の旅だったという説もある。
それは芭蕉が忍者の里の出身で、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫にあたることと、無関係ではなかったようだ。
松尾芭蕉の隠密説に興味のある人は、こちらのサイトがおもしろいよ(笑)。
松尾芭蕉の年表
1644年(0歳)
伊賀国で生まれる。父親の松尾与左衛門は、この地域の有力者だったとされる。
1662年(18歳)
伊賀国を治めていた藤堂家の一族、藤堂良忠に仕える。良忠と共に、北村季吟の下で俳諧の勉強を始める。
1666年(22歳)
主君である良忠がなくなったため、藤堂家から離れる。
1674年(30歳)
北村季吟から俳句の腕を認められ、彼の元を離れる。
1675年(31歳)
この頃から江戸に住み、多くの俳人と交流する。
1684年(40歳)
出生地の伊賀へ向けて「野ざらし紀行」の旅に出る。
1686年(42歳)
春の発句会で「古池や蛙飛びこむ水の音」を詠む。
1689年(45歳)
弟子の河合曾良(かわいそら)と「奥の細道」の旅に出る。この旅によって、芭蕉の代表作となる多くの句が詠まれた。また、訪れた地で多くの弟子を獲得することにも成功した。
1694年(50歳)
江戸から、伊賀を超えて近畿へ向かうが、最後は大坂で病死する。葬儀には300人以上の弟子が参列したとも云われている。
奥の細道
「奥の細道」は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道をめぐった際の紀行文。
東北に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的だったとされている。
有名な「奥の細道」の序文。
現代文にすると、
月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。
月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものである。
舟の上に生涯を浮かべ、
川を行き交う舟の上で人生をおくる船頭、
馬の口とらへて老いを迎ふる者は、
馬の口をつかまえて老いを迎える馬借などは、
日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
毎日が旅であり、旅をすみかとしている。
古人も多く旅に死せるあり。
旅の途上で死んだ者も多い。
予も、いづれの年よりか、
私もいつの頃からか、
片雲の風に誘はれて、
千切れた雲がたなびくのに誘われて、
漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、
さすらいの旅に出たい気持ちを抑えられず、
となる。
「奥の細道」のルートをおおまかに云うと、江戸の深川を出て、日光・松島・平泉まで行き、山形を横断して日本海側に抜け、新潟から金沢・敦賀と南下して大垣にゴールする。
日程は150日間、総移動距離は2,400キロ、その途中では1日に50キロも移動する日があったようだ。
芭蕉が立ち寄った場所の多くは、その地域の観光名所になっている。
芭蕉の足跡が今もなお、多くのに人々に愛されて止まない理由のひとつは、芭蕉が詠んだ句から、その地の情景や哀愁がひしひしと伝わってくるからにほかならない。
ちなみに、芭蕉の句と思われがちな「松島や ああ松島や 松島や」は、江戸後期の狂歌師・田原坊の作で、正真正銘の芭蕉の句は「島々や千々に砕けて夏の海」。
そりゃ、そうだろう!(爆)。
松尾芭蕉ゆかりの地に関する筆者の記事
さすがに、句碑が残るすべての場所に足を運ぶことは難しい。
しかしこれまで旅してきた芭蕉ゆかりの地に関するクルマ旅のガイドは、おいおい増やしてきたいと考えている。
こういうコンテンツこそ、まさに「車中泊のクルマ旅ならでは」だと思う。