この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊旅行における宿泊場所としての好適性」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
それは、武士の時代を完全終結させたこと
西郷隆盛の果たした功績を「ひとこと」で云うと、こうなる。
鹿児島を旅人がめぐる際に知っておくべきことは、試験に出題されるような正確なものではなく、あくまでも「旅」を面白くするための「教養レベル」でいい。
だがそれゆえに、「よく絞り込まれた情報発信源」を見つけることが大切だ。「誰向けに発信されているのか?」によって中身はかわる。
歴史ファンではなく、「旅人に向けて」というのがこのサイトの「ミソ」だ。
プロローグ
幕末の1828年に、鹿児島城下の加治屋町に住む下級藩士の家に生まれた西郷隆盛は、紆余曲折の青年時代を経て、薩摩藩の家老、さらには明治政府の参議兼陸軍元帥にまで登りつめた。
だが、最後は1877年(明治10年)に勃発した西南戦争で敗れ、享年51歳でその人生に幕を降ろしている。
そんな西郷どんの功績は、3つの時期に分けてみると明快だ。
1.島津斉彬に仕えた、20代後半
若き日の西郷隆盛は、先見の明と行動力に長けた名君・島津斉彬の「懐刀」として、その特命を果たすことに全てをかけていた。
しかし仕事の大半が工作活動であったため、表に出るものは少ない。とはいえ、「篤姫」の婚礼用品を買い揃えたという話を「功績」に入れるのは、さすがに心もとない。
2.島津久光に仕えた、30代後半
30代前半の西郷どんは、南の島に幽閉されていた。
井伊直弼が暗殺された後、一度は藩職に復帰を果たすが、すぐさま島津久光の激高を買って逆戻り。
奄美黄島よりもさらに遠い、沖永良部島に流されてしまう。
そんな西郷どんに「大逆転」のチャンスが訪れたのは、「禁門の変」(1864年)が勃発する前年だ。
そこから大政奉還が行われる1867年までが、事実上の島津久光配下での功績を成し遂げた時期になる。
薩長同盟は坂本龍馬の功績とも云われるが、キーマンであったのは、当時「ヒト・モノ・カネ」をどこより有していた薩摩藩であったことは明白で、西郷隆盛自身が、「佐幕」から「倒幕」に方針を変えていなければ、日本の歴史は違っていた。
3.明治政府の参議として活動した、40代前半
まずは江戸城の無血開城から。
勝海舟との和平交渉において、平和的解決を選択したことを挙げたい。皇居を安全な江戸城内の中に置き、速やかに首都を東京に移転できたのは、江戸の町が残ったおかげといえる。
次は明治政府の参議に就任して兵制改革行い、政府軍を結成して、「最大の難関」とされた「版籍奉還」「廃藩置県」の導入に際する「後盾」となったこと。
最後は、岩倉使節団が海外を視察している間に、軍政改革、警察の創設、さらに地租改正や学制、国立銀行条例の発布、太陽暦の制定等を実施したことが挙げられる。
だが、その後は戻ってきた岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通(おおくぼとしみち)との征韓論を巡る争いに嫌気がさし、鹿児島へと引き上げている。
エピローグ
明治維新後に西郷どんが果たした役割は、実質上の藩主だった島津久光を筆頭にする、「改革反対派」の抑制にあったと云っても過言ではない。
その「集大成」が西南戦争での殉死だ。
45歳で故郷の鹿児島に下野した西郷どんは、しばしの間、家族と隠居生活を楽しむ。
だが、後を追って鹿児島に戻ってくる若い士族たちのために立ち上がり、「私学校」を設立した。しかし、それが大久保との溝を深めることになり、最後は西南戦争へとつながっていく。
西郷は分かっていたと思う。
日本中の氏族に、新政府への抵抗を諦めさせるには、政府軍と戦って散るしかないということ。
そしてそれが、最後の自分の役割だということも…
そんな「敬天愛人」の境地を得た西郷どんの「潔いの良い生き方」に、感銘を覚える人は、たとえ大河ドラマが終了しても尽きることはない。
「西郷どん」行きの電車は、ほっておいても次々にやってくる…