【2023年1月更新】
車中泊旅行歴25年の歴史に精通するクルマ旅専門家がまとめた、太宰府政庁跡の歴史・見どころ及び周辺の車中泊事情に関する記述です。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
日本遺産の「太宰府政庁」は、飛鳥時代に築かれた国家防衛と外交のための拠点
太宰府政庁跡 DATA
史跡公園 太宰府政庁跡
〒818-0101
福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
大宰府展示館
大人200円
9時~16時30分
月曜定休・年末年始(12月28日~1月4日)休館
無料駐車場
普通車40台
8時30分~17時30分(施錠有)
「太宰府政庁跡」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2014.01.21
2019.02.12
※「太宰府政庁跡」での現地調査は2019年2月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2023年1月に更新しています。
太宰府政庁跡 歴史探訪ガイド
太宰府政庁 誕生の歴史
太宰府天満宮が菅原道真を祀っていることは、受験経験のある日本人なら誰もが知っている話だと思う。
しかし太宰府と菅原道真公の関わり、もっと云えば「そもそも太宰府とはなんぞや?」という話にまで遡ると、説明できる人は地元のじいちゃんか、先生と名がつく人だけに限られるかもしれない(笑)。
ヤマト政権の地方行政機関である太宰府政庁は、7世紀後半に地方政治の中心地及び防衛・外交の拠点としての役割を担うべく創建された。
大宝律令以前には、 吉備・周防・伊予にも置かれていたが、その後九州のみが残ったため、一般的に「太宰府」と云えば、この地を指すようになったという。
背景には、筑紫の地が古くから日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史的に重要な役割を担っていたことが挙げられる。
それを物語る遺跡が、2017年に世界遺産に登録された『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』だ。
沖ノ島には、日本列島、朝鮮半島および中国大陸の諸国間の活発な交流に伴い、4世紀後半から9世紀末まで続いた、航海安全に関わる古代祭祀遺跡が残されている。
さて。
かつて「遠の朝廷」と称された九州の「太宰府」は、古くは那津(福岡市)にあり、筑紫太宰という官吏が置かれていた。
しかし663年に起きた「白村江(はくそんこう)の戦い」で、唐と新羅の水軍に大敗を喫したヤマト王権は、本土来襲の危惧から水城を設け、大野城、基肄城(きいじょう)の間に新たな「太宰府」を築いた。
そこでは平城京や平安京と同じく条坊制が敷かれ、中心部には政庁の建物が立ち並び、律令制に基づき1000人を超える官人が働いていたと考えられている。
今は史跡公園となった大宰府政庁跡を訪れると、当時の規模とその壮大さを改めて偲ぶことができる。
ちなみにアプリ「VR 日本遺産 古代日本の『西の都』大宰府」をダウンロードすると、3次元CGで復元した大宰府政庁を見ることができるそうだ。
そして、ここで登場するのが「防人(さきもり)」だ。
「防人」は「白村江の戦い」以後に制度化された徴兵制で、当初は諸国の兵士の中から3年交代で選ばれ、のちには東国出身者に限られるようになった。
国家警備の目的で北九州に配置された兵士たちは、東国から陸路で都へ、さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から船で瀬戸内海を通り九州へ向かったという。
筆者はその話を、茨城県にある「鹿島神社」を取材している時に知った。
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」は、武をつかさどる神として古くから崇拝されてきた。
同神宮によると、奈良時代には関東地方から九州へ赴く兵士の多くが、出発前に同神宮で武運を祈ったという。
その後「防人」は数度の改廃を経て、延喜年間(901~923年)頃には有名無実になったというが、その「防人」の悲哀を歌った名曲がある。
この曲は日露戦争の旅順攻略戦を描いた、映画「二百三高地」の主題歌だが、タイトルから分かる通り、背景には万葉集に残された和歌が隠されている。
なお「白村江の戦い」については、書けば死ぬほど長い話になるので割愛し(笑)、参考になりそうなこのサイトをリンクさせていただくことにする。
その後、幸いにも唐の報復はなく、「太宰府」に平穏な日々が訪れる。
大伴旅人や山上憶良などが顕官として派遣され、大宰府は万葉集にも歌われる華やかな時代を迎えた。
太宰府天満宮の起源
ここから「太宰府物語」の後編になる。
平安時代の前期に、豊かな学才を備え、時の天皇から厚い信任を得て右大臣の位にまで登りつめた菅原道真が、左大臣藤原時平の政略により、身に覚えのない罪を着せられ「太宰府」に突如左遷されたのは、それからおよそ100年近く経た901年のこと。
太宰府長官職に当たる太宰権帥の地位にありながら、事実上は幽閉状態で一度も登庁せず、与えられた官舎は床が朽ち、屋根は雨漏りするようなところであったという。
そして2年後、道真公は失意のままにこの世を去る。
道真公の忠臣であった味酒安行(うまさけやすゆき)が葬地を求め、牛車で棺を運んでいると、安楽寺の境内(今の本殿付近)で牛が伏して動かなくなった。
それを天の啓示であると信じた安行は、この地を道真公の墓所として棺を埋葬し、祠を建てたのが「太宰府天満宮」の起源といわれている。
それから36年後の天慶2年(939年)。
「太宰府」は藤原純友の乱(天慶の乱)で焼き討ちにされ、その威光が地に落ちる。
その後なんとか復興を果たすものの、今度は朝廷そのものの翳りが顕著となり、太宰府政庁は衰退に歯止めがかからず、太宰権帥の位も形骸化、やがては中央から役人も赴任して来なくなった。
以降この地で、「太宰府」に代わって栄華を極めていくのが「太宰府天満宮」だ。なんと皮肉な話なんだろう。
その「太宰府天満宮」に関する詳しい話は以下の記事で。
※大宰府政庁跡から太宰府天満宮までは約3キロ。歩いて行くには遠すぎる。