この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
和気清麻呂が不遇の時代を耐えた場所
和気神社は、霧島温泉の名勝「犬飼滝」の近くにある小さな神社で、あまり観光客が訪れるような場所ではないと思うが、その由緒は実に興味深いものがある。
和気清麻呂のプロフィール
西暦769年、奈良の都では称徳天皇の寵愛を受けた弓削道鏡が、天皇を謀って皇位を手中に収めようとする、「宇佐八幡宮神託事件」が勃発する。
和気清麻呂は天皇の勅命を受け、その神託の真実を確かめるために、九州の宇佐八幡宮まで足を運んだ。
そこで清麿は信託が偽りであることを暴き、この企みを退ける。だがその直後に、銅鏡の恨みを買った和気清麻呂は都を追われてしまった。
その清麿が、再び都に呼び戻されるまでの日々を過ごした場所が、現在の和気神社が建つあたりだと伝えられている。
政争に破れ、九州に流刑になった貴族といえば、無念の最期を迎えた菅原道真公を連想するわけだが、和気清麻呂は翌年に光仁天皇が即位し、銅鏡が下野国へ左遷されると、都に呼び戻されて躍進を遂げる。
そして次の桓武天皇の時代に「平安京遷都」を進言し、造宮大夫として都づくりを推進する。その結果、誰もが中学時代に覚えた「泣くよウグイス平安京」が現実のものとなった(笑)。
それ以降、1000年以上にわたって日本の都となる京都には、今も御所の前に、和気清麻呂を祀る「護王神社」がある。
もっと驚くのは、そのすぐ並びに、菅原道真公の生家「菅原院天満宮神社」があることだ。これは何かの因縁としか思えない(笑)。
さて。話がここで終わるのなら、こんな長い前フリはしない。筆者が由緒と呼ぶ出来事はこれからだ。
島津斉彬公のお手植えの松
和気清麻呂は、天皇に忠誠を尽くした人物ということで、「尊王攘夷」論が盛んになった幕末に注目を浴びている。
それもあって、島津斉彬は親交の深い京都の近衛公から、和気清麻呂に関する調査を依頼され、家臣に命じてゆかりの地を突き止めさせた。
そして1853年(嘉永6年)にこの地を訪れ、写真の松を植えている。
坂本龍馬の訪問
京都の寺田屋で負った傷の療養で、龍馬がおりょうを連れて、霧島に湯治がてらの新婚旅行に訪れたのは1866年。
斉彬公の13年後だが、当時はまだ社はなく、お手植えの松があるだけの場所だったという。
筆者が気になるのは、なぜここに龍馬は足を運んだのか…
白い柱に記された姉の乙女宛の手紙には、和気清麻呂の名前が登場するので、龍馬がその偉業を知っていたのは確かだろう。
一時は土佐勤王党に在籍していた龍馬だけに、尊王攘夷論には精通している。ただ、斉彬公の話は薩摩藩の誰かから聞いたのかもしれない。
それから察するところ、龍馬は偶然ではなく、意図してここに立ち寄ったと思う。もっとも、おりょうにはうちの家内と同じように、しごく退屈な場所だったに違いない(笑)。
それと土地勘のない霧島で、お尋ね者の龍馬とおりょうが二人きりで行動していたとは考えにくい。薩摩藩から護衛を兼ねた付添が用意されていたのではないだろうか。
歴史というのは、調べるほどに疑問がわくから面白い。
ちなみに、「又あふと 思う心をしるべにて 道なき世にも出ずる旅かな」という和歌は、ここで龍馬が詠んだものではないようだ。
紛らわしいな~、もう(笑)。
最後に、この地に和気神社が建立されたのは、戦後の1946年(昭和21年)。
またイノシシがあちこちに登場するのは、銅鏡に足の腱を切られて都を追われた清麻呂を、300頭ものイノシシが守り、足の萎えまで直したという古事に由来している。
それが転じて和気神社は、足腰の病気・怪我回復の御利益があるとされている。