この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
迫力とリアルさに満ち溢れた、濱田浩造氏の名作
和田城跡(川西路地区構造改善センター)の広場にある「維新の門」には、梼原町にゆかりのある六志士(吉村虎太郎・那須信吾・那須俊平・前田繁馬・中平龍之助・掛橋和泉)に、坂本龍馬、澤村惣之丞を併せた、八人の銅像が建立されている。
銅像は彫刻家・濱田浩造氏によるもので、屋外で雨ざらしにしておくのがもったいないと思えるほどの秀作だ。
濱田氏は「維新の門群像」以外に、岩崎弥太郎、お龍・君枝姉妹像、長宗我部元親など、高知を代表する銅像を数多く手掛けており、その作風は見るものを圧倒する迫力に満ちている。
ちなみにこの銅像は、人間が服を着るのと同様に、甲冑の下の袴から重ね合わせて作り上げてあるそうだ。
六志士の紹介(梼原町のHPより転用)
吉村虎太郎
天保八年(1837)四月十八日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。
武市瑞山らと勤王党を結成、文久二年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年(1863)二月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も九月二十七日壮烈な戦死を遂げた。 二十七歳
那須信吾
文政十二年(1829)十一月十一日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。
文久二年(1862)三月二十六日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、四月八日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。
翌三年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で九月二十四日戦死した。 三十五歳
那須俊平
文化四年(1807)一月二日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。
元治元年(1864)六月六日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年七月、禁門の変に参加し、奮戦の末同月十九日、鷹司邸後門で戦死した。 五十八歳
前田繁馬
天保六年(1835)五月、松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久三年(1863)一族の前田要蔵に従って上京。禁裏守護諸藩の志士と交わった。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。
吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県桜井市)で同年九月二十六日戦死した。 二十九歳
中平龍之助
天保十三年(1842)四月三日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。
文久三年(1863)十一月六日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)七月十九日鷹司邸内で自決した。 二十三歳
掛橋和泉
天保六年(1835)三月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。
文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ六月二日自決した。 二十八歳
故郷、梼原の地で丁重に弔われている六志士。
今も残る、掛橋和泉邸。
大河ドラマ館に再現された那須信吾の家。ここに龍馬と沢村惣之丞が脱藩前夜に泊まったとされている。