「正真正銘のプロ」がお届けする車中泊・歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
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車中泊クルマ旅で、日本の歴史舞台を訪ねてまわる
クルマ旅の専門家が、大河ドラマや映画に描かれた日本の歴史舞台を車中泊でめぐる旅をご紹介。
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行けば分かる。龍馬が梼原を脱藩の道に選んだ理由
龍馬が土佐を脱藩したのは28歳の時。
その事を聞いた武市半平太が、龍馬は「土佐の国にはあだたぬ奴だ」と語った話は有名で、「あだたぬ」とは土佐弁で包容しきれぬ人という意味を持つ。
龍馬が脱藩を決意した理由は、武市半平太を軽視する吉田東洋暗殺に反対だったからとする説と、長州主導の急進的な改革を目指す攘夷派の、京都挙兵計画に魅力を感じ、郷里に見切りをつけたとする説などがあるようだが、いずれにしても土佐藩の旧態然とした体質への嫌気が、その背景にあったことは確かだろう。
龍馬の脱藩については、他にも面白い逸話が残されている。
それは松ケ峠の番所で、「坂本龍馬、まかり通る」と言い残し、堂々と番人の前を過ぎ去ったという伝承だ。
同時にその話は、ある疑問へと我々を導いてくれる。
そもそも、なぜ龍馬は梼原(ゆすはら)を脱藩の道に選んだのだろう。
実はこの道を通り、龍馬より先に土佐藩を脱藩した人物がいた。
それは「龍馬伝」で、要潤が好演した澤村惣之丞(さわむらそうのじょう)。惣之丞は京都挙兵計画に参加すべく、吉村寅太郎と共に既に脱藩を果たしており、同志を募るために再び土佐に戻っていた。その誘いに乗ったのが龍馬だ。
二人は土佐勤王党を通じた旧知の仲で、この後、惣之丞は龍馬の右腕として海援隊でも大いに手腕を発揮する。
梼原の見どころ
梼原に残る坂本龍馬関連の見どころといえば、まずは「維新の門」だろう。
中には梼原町にゆかりのある六志士に、坂本龍馬、澤村惣之丞を加えた8名のリアルな群像がある。
脱藩の地・梼原で、坂本龍馬の同志が躍動する「維新の門群像」
クルマ旅のプロがまとめた、脱藩の地「梼原」にある坂本龍馬と同志の銅像「維新の門群像」に関する記述です。
そして「脱藩の道」の梼原最終地、土佐と伊予の国境がある「韮ヶ峠」。龍馬もここを抜けて行ったが、現在でも韮ヶ峠は高知県と愛媛県の県境だ。
梼原に今も残る、「坂本龍馬・脱藩の道」を歩く
クルマ旅のプロがまとめた、梼原に残る「坂本龍馬・脱藩の道」の周り方に関する記述です。
時間があれば、そのまま高知県と愛媛県の県境に広がる、日本最大級のカルスト高原「四国カルスト」にも足を伸ばそう。
晴れていれば、素晴らしい山の景観が見られる。
四国カルストの見どころと、車中泊事情
四国カルストの見どころと、車中泊事情に関する記述です。
梼原の車中泊事情
市街地から3キロほど離れたところに、温泉が隣接する「道の駅 ゆすはら」がある。梼原は他の観光地から孤立しているため、本気で龍馬の足跡を追うなら、最初からここで1泊するつもりで行くほうがいいと思う。
道の駅ゆすはら 車中泊好適度チェック! 2023年4月更新
クルマ旅のプロがまとめた、「坂本龍馬・脱藩の道」が通る梼原町にある、温泉併設の「道の駅ゆすはら」の車中泊に関する記述です。
車中泊で辿る、坂本龍馬ゆかりの地
梼原編
高知市内編
全国各地に残るゆかりの地の記事はこちらで。
日本各地に残る「坂本龍馬ゆかりの地」 車中泊巡礼ガイド
クルマ旅のプロがまとめた、日本全国に残る坂本龍馬ゆかりの地を車中泊で辿る旅のガイドです。
高知県 車中泊旅行ガイド
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