この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
「高知城」は史跡としてより、そこに刻まれた土佐藩の歴史のほうが面白い。
築城以来400年余りの歴史を持つ「高知城」は、日本史に興味がある・なしに関わらず、高知市を訪れる観光客の大半がとりあえずは訪れる、この地の「ランドマーク」的な存在だ。
それゆえネット上には、似たような情報を掲載しているサイトが山ほどある。
しかしその多くは、小難しい受け売りの話で最後まで読む気がしないか、逆に簡単すぎて役にたたない(笑)。
知りたいのは、「観光客目線」に立ったユニークな見どころだ。
すなわち「ここを見れば高知城に来た気になれる」、もっと云えば「ここの写真をSNSにアップすれば、【いいね】が増える」というような話である(笑)。
たとえば、「高知城」は江戸時代に築かれた天守が残る、日本の12の城のひとつだが、「天守」と正門にあたる「追手門」が現存しているのは、この「高知城」だけだ。
しかも「高知城」は、その両方を1枚の写真に納めることができる。
そう云われると、ここから写真を撮って帰りたいとは思わないか…
建造物としての「高知城」の見どころ
土佐藩成立までの経緯
土佐藩主・山内一豊
大政奉還のキーマン・山内容堂
自由民権運動の指導者 板垣退助
高知城 アクセスマップ
建造物としての「高知城」の見どころ
せっかくなので、サクッと「高知城」のプロフィールを紹介しよう。
「高知城」は関ヶ原の戦いの後、その功績により、徳川家康から土佐一国を拝領した「山内一豊」が、1603年(慶長8年)に築城した。
江戸時代に城下町の大火で、追手門以外の建造物を焼失するが、1749年(寛延2年)に再建されている。
そのまま明治維新を迎えるが、廃城令により本丸と周辺の建造物及び追手門のみが残され解体。1874年(明治7年)に高知公園として生まれ変わった。
さて。前述した「追手門」の話より興味深いのは、「高知城」は「天守」と「御殿」が築かれ、城内でもっとも重要な場所とされてきた、「本丸」が現存している日本で唯一のお城であるということだ。
「上段の間」は「御殿」の中にある藩主の御座所。白い「帳台構え」は、中に護衛の武士が隠れられることから、「武者隠し」とも呼ばれている。
野面積みの石垣は、「現存12天守」の城では珍しいものではない。
だが、そこから「飛び込み台」のように突出した「石樋(いしどい)」は、「高知城」ならではの仕掛けだ。
高知県は昔から降水量が多く、排水に注意が図られてきた。雨水が石垣に染み込めば、崩れる要因になりやすい。
それを防止するため、「石樋」は各曲輪からの排水を、直接石垣に触れることなく地面に流す役割を果たしている。
他にも細かいことを言い出せば、キリがないのが「お城」というものだが、「高知城ならではの特徴」で外せないのは、このくらいかな。
物足りないという人には、続きをオフィシャルサイトでご覧いただきたい。
見学には「無料ガイド」がお勧め!
実は、高知城を手っ取り早く楽しむ方法がある。
高知城内にある観光案内所では、無料のガイドを受け付けている。それに参加するなら、あえて予習をして行く必要もない。
ガイドは2種類あり、ひとつは約1時間半で天守まで案内してくれる「定時ガイド」で、午前9時10分と午後13時30分出発の1日2回行われている。
もうひとつは、高知城観光案内所から本丸御殿前にいたる、約50分間の個別ガイドで、随時案內してもらえる。
ただあまり何も知らないと、ガイドさんも張り合いがないので、多少は勉強していこう(笑)。
ということで、次は「土佐藩」の話に進みたい。
土佐藩成立までの経緯
戦国時代に「群雄割拠」の土佐を統一したのは、「長宗我部元親」だった。
元親は次いで四国平定に乗り出したが、1585年(天正13年)に四国に進出してきた豊臣秀吉に敗れ、元の鞘である土佐一国の領主に収まった。
その後、元親は上洛して秀吉に謁見し臣従を誓う。
1590年(天正18年)の小田原征伐に水軍を率いて参戦するなど、元親と秀吉には良好な信頼関係が続いていた。
そのような経緯から、元親の後を継いだ盛親は、1600年(慶長5年)の「関ケ原の合戦」に西軍として参陣するが、敗れて領地を改易される。
翌1601年(慶長六年)、土佐には長宗我盛親に代わって「山内一豊」が、二十四万石の国主として入国する。
しかし長宗我部氏の家臣団は、浦戸城の引渡しを拒否し、「浦戸一揆」を起こして抵抗した。
その結果、山内一豊は表面上は長宗我部氏時代の政策を尊重を掲げつつ、実際には旧長宗我部氏家臣に対する厳しい差別と弾圧を行い、土佐藩の基礎を築いていくことになる。
この騒動がきっかけで、土佐藩には長宗我部氏の流れをくむ「下士」と、山内氏に伴って土佐入りした「上士」という武士の身分制度が生まれ、それが幕末の龍馬の時代まで、200年以上に渡って脈々と生き続けていく。
長宗我部盛親の「その後」
実は盛親には、土佐を没収される代わりに「御堪忍分」というかたちで替地を与えられる予定だったのだが、予期せぬ「浦戸一揆」の責任を問われ、家康にその支給を反故にされた。
大名家としての長宗我部氏は、この時をもって滅亡するが、盛親はその後、大阪と伏見に身を隠し、復活の時をうかがっていた…
そしてめぐってきたのが「大坂の陣」だ。
盛親は長宗我部家の再興を願う旧臣たちとともに、「真田幸村」率いる豊臣軍として戦うが、最後は徳川軍に敗れ、名実ともに滅亡した。
ちなみに「真田丸」で盛親を演じていたのは阿南健治。盛親が歩んできた苦節の人生をにじませる、何とも人間臭い演技がとても印象的だった。
土佐藩主・山内一豊
土佐藩の藩祖・山内一豊は、流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長に仕える木下藤吉郎の下で力をつけて台頭する。
秀吉が天下人になると、さらに数々の武功を重ね、近江長浜2万石、さらに遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営にも手腕を発揮した。
秀吉亡き後は石田三成と反りが合わず、「関ヶ原の戦い」で徳川方に味方し、土佐24万石の国主となって高知城を築城する。
NHK大河ドラマ「功名が辻」
「功名が辻」は、山内一豊と妻の千代の生涯を描いた、司馬遼太郎の歴史小説を原作に、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマで、山内一豊を上川隆也、千代は仲間由紀恵が演じている。
「御殿」には、ドラマで仲間由紀恵が来た着物が、今も展示されている。
高知城内には、千代の内助の功の逸話を伝える記念碑も建てられている。
大政奉還のキーマン・山内容堂
山内容堂は、坂本龍馬が生きていた時代のお殿様。
生母が父の10代藩主・豊著(とよかず)の側室だったため、お城のすぐ近くにあった追手邸で生まれた。もともと当主になる目はなかったが、13・14代藩主があいついで急病死したのを受けて、土佐藩15代藩主に就任した。
後に「四賢侯」の一人と称される容堂は、坂本龍馬が発案した「船中八策」を、藩政の後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白する。
大河ドラマ「龍馬伝」では、近藤正臣が怪演。時に鋭く、時に虚ろなその目つきで、これまでに見たことのない斬新な殿様像を見せてくれた。
ちなみにドラマでは、龍馬も後藤象二郎とともに高知城にあがり、容堂公に建白を嘆願するのだが、残念ながら龍馬はお城に入れる身分ではなかったため、そのシーンはフィクションのようだ。
自由民権運動の指導者 板垣退助
最後に、高知城の追手門をくぐってすぐの石段の登り口に立つ、気になる「髭男爵」の紹介をして終わろう。
明治維新以前は土佐藩の藩士だった土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の閣僚だ。
板垣家は、武田信玄の家臣で有名な板垣信方(武田四天王)を祖とする家柄で、板垣信方の孫・板垣正信は、武田氏滅亡後、遠江国掛川城主となった山内一豊に召し抱えられ、土佐へやってきたという。
ちなみに、板垣退助は後藤象二郎と竹馬の友で、坂本龍馬とは明治以降に親戚となる。
なお「板垣死すとも自由は死なぬ」の名セリフは、ここではなく岐阜城で襲撃された時に放っている。