この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
大河ドラマ「龍馬伝」での2人の最初の出会いは「脚色」?
長州藩士の高杉晋作と坂本龍馬が、昵懇の仲であったことはよく知られているが、二人はいつどこで初めて出会ったのか…
大河ドラマ「龍馬伝」では、第29回「新天地、長崎」で、外国からの武器購入のために長崎に潜り込んでいた高杉晋作(伊勢谷友介)らと、丸山の料亭・引田屋(ひけたや)で偶然出会い、翌週に放送された第30回「龍馬の秘策」でも、崇福寺の境内で再会する設定になっていた。
だが、史実は少し違うようだ(笑)。
【目次】
長崎における坂本龍馬と高杉晋作の出会い
薩長同盟が締結される少し前に、高杉晋作が長崎にいたのは本当らしい。
1865年(元治2年)3月に藩からイギリス渡航を許された晋作は、伊藤博文とともに、下関の馬関に寄港したイギリス商船ユニオン号に乗船し、長崎に向かっている。
長崎に着いた晋作と博文は、トーマス・グラバーの邸宅を訪ね、イギリスへの渡航の手配を依頼した。
二人はその準備が整うまで、イギリス領事のラウダーから英語を学ぶために長崎に滞在したが、ラウダーは「長州が大変な今、洋行すべきでない」と二人の渡航を思いとどままらせ、グラバーもその意見に賛同したことから、渡航を断念している。
いっぽう、坂本龍馬が長崎で「亀山社中」を立ち上げたのは同年の5月。
時期的は重なるものの、「龍馬伝」に描かれたような出会いがあったという記録は、ネットで探した限り見当たらなかった。
しかしこの脚色は、「もしかしたらあったのかも!」と思わせるに十分な設定で、こうした歴史背景を知れば、その面白さは何倍にも膨らむ。
もちろん、脚本を手掛けた福田靖氏もこのことを熟知していたことは容易に推察できるわけだが、長崎の名所を二人の出会いに紐付ける巧みさには舌を巻くしかない。
丸山の料亭・引田屋
写真の「花月」は、1642年(寛永19年)に創業された「遊女屋引田屋(ひけたや)」の庭園内に、幕末の頃造られたと伝わる茶屋。
大正の終わりに「引田屋」は廃業したが、「花月」の名称と引田屋の庭園、そして建物は現在に伝承され、1960年(昭和35年)に長崎県の史跡に指定された。
その「花月」は、”史跡料亭”として現在も営業している。
高杉晋作はイギリス行きは断念したものの、五代友厚らとともに「幕府使節随行員」として長崎から中国の上海へ幕府の千歳丸で渡航を果たしている。
ただそれまでの約100日、長崎の町で暇を持て余した晋作は、「花月」で派手に遊んだという。
晋作の懐には長州藩より支給された500両があった(笑)。
また薩摩藩から高給を得ていた龍馬たちも、「花月」にはよく出入りをしていたようだ。
タイミング次第では、両者がここで出会っていたとしても不思議ではあるまい。
崇福寺
晋作は、丸山で遊び呆けていたばかりでなく、崇福寺に滞在していた宣教師のウイリアムズやペーパーバックを訪ね、アメリカの南北戦争や清国の内乱の情報収集に務めていたという。
ただ、龍馬がここへ足を運んだかどうかはわからない…
※参考文献:高杉晋作Museumサイト
坂本龍馬と高杉晋作の有名なエピソード
さて。
高杉晋作と坂本龍馬の最初の出会いは、脱藩前に武市半平太とともに出向いた江戸・川崎宿の「萬年屋」にて会食したというのが定説のようだ。
この時は久坂玄瑞も同席していたとされるが、それが両者が親しみを覚えるきっかけになったとは思えない。
それよりも「亀山社中」時代に、下関で何度か行われた薩長同盟に関する話し合いの場が、お互いを認め合う機会になっていったと考えるほうが合点がいく。
そこで最後に、二人の友情を偲ばせるエピソードを紹介しておこう。
ちなみに龍馬伝では、伊勢谷友介が高杉晋作を好演していた。
1866年(慶応2年)12月、薩長同盟締結へ向けた準備のために下関入りした龍馬は、高杉晋作との再会を果たす。
この時に高杉晋作は、長州のために体を張って活動してくれる龍馬に、万一の護身用にとピストルを贈っているが、その晋作の予感がいきなり見事に的中する。
龍馬は薩長同盟締結直後の1867年(慶応3年)1月23日に、京都・伏見で「寺田屋事件」に遭遇するが、その時に龍馬は晋作から受け取ったピストルで応戦している。
お龍の証言によると、その時の様子は以下の通り。
乱闘の中、龍馬が放ったピストルの弾は、一発目は外れ、二発目は龕灯を持っている者に命中、三発目も命中し、四発目が命中した捕り方は、五、六人を巻き込みながら階段を落ちていった。
そのうち、物陰から襲いかかった者が、龍馬の右手親指の関節を切り、さらに左手の親指の関節、人差し指の根元を切った。
龍馬がその者に銃口を向けると、障子の陰に隠れた。
龍馬は五発目を打ったが、命中したかどうかわからない。
最後の一発は黒頭巾をかぶり、袴をつけ、槍をかまえた捕り方に狙いをつけた。龍馬は三吉の左肩でピストルをささえて撃ち、見事命中した。
両手を負傷した龍馬は、新しい銃弾を入れようとお龍に命じて床の間の弾箱を運ばせようとするがうまくいかず、三吉が応戦しようとするがそれを止め、裏手から逃げる道を選んだ。
龍馬と三吉はそのまま木材小屋に逃げ込み、「追っ手に捕まるくらいなら、ここで切腹を」と言う三吉を、「死ぬのは、いつでもできる。三吉は薩摩藩邸に走ってくれ」と諌める。
その後、お龍と三吉が命懸けで薩摩藩邸に辿り着き、薩摩藩の西郷隆盛の助力により、龍馬は瀕死の状態で救助された。
この時、切られた指は皮一枚でほとんど垂れ下がっており、出血も多く助かったのは奇跡に近いと云われている。
龍馬が使ったピストルは、「スミス&ウェッソンⅡ型アーミー 32口径回転弾倉付き6連発 」。
ただ、この時にピストルは紛失、以降どこに消えたのかは謎のままだ。
実は龍馬は別にもう一挺ピストルを所持しており、そちらは「スミス&ウェッソンⅠ型アーミー 回転弾倉付き5連発」だったとされている。
寺田屋事件後に自ら手に入れたと思われるピストルは、鹿児島の霧島温泉に保養を兼ねて新婚旅行にでかけた際に、妻のお龍が鳥を撃って面白かったと姉の乙女宛に書いた手紙に登場する。
暗殺された時も持っていたと思われるが、きっと取り出す間もなかったのだろう。