車中泊旅行歴25年の歴史に精通するクルマ旅専門家がまとめた、2023年2月現在の黒田官兵衛ゆかりの福岡城の歴史と見どころ及び、周辺の車中泊事情に関する情報です。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。

広大な敷地を誇る「福岡城」は、予習をしてから行かないと、見るべきところがよく分からない。
福岡城 DATA
福岡城
〒810-0043
福岡県福岡市中央区城内1
☎0979-22-3651
入場無料
鴻臚館跡展示館
(御城印、日本100名城スタンプあり)
入館:無料
開館時間:9時〜17時
(受付最終16時30分)
休館日:12月29日〜1月3日
駐車場
舞鶴公園第1駐車場(68台)
舞鶴公園第2駐車場(71台)
舞鶴公園第3駐車場(28台)
料金はいずれも1時間150円で、夜間の入庫はできないが、出庫は24時間可能
「福岡城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2014.01.21
2017.12.30
※「福岡城」での現地調査は2017年12月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2023年2月に更新しています。
福岡城の歴史と見どころ&車中泊事情
福岡城の歴史と概要
「福岡城」は、徳川家康に関ヶ原の戦いにおける功績を認められた黒田長政が、豊前国中津12万石から52万石に加増を受け、1601年(慶長6年)から7年がかりで、父の官兵衛とともに築き上げた名城だ。
平山城で鶴が羽ばたく姿に似ていることから、「舞鶴城」の異名を持ち、日本100名城にも名を連ねている。
福岡城跡は、石垣や縄張りがほぼ当時のままの姿をとどめていることから、第二次世界大戦後に本丸跡一帯が「舞鶴公園」として整備され、1957年(昭和32年)には西に隣接する「大濠公園」とともに、国の史跡に指定され、今も福岡市民の憩いの場となっている。
広大な城跡には、現存櫓や移築された櫓や城門、さらに復元された櫓や城門が点在しており、「南二の丸多聞櫓」とそれに続く「南二の丸南隅櫓」は国の重要文化財に指定されている。
また平和台球場跡から出土した国史跡「鴻臚館跡」がある「三の丸跡」は、珍しい二重史跡だ。
鴻臚館(こうろうかん)
「鴻臚館」は飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として、また遣唐使や遣新羅使の宿泊所として使用された記録が残る。
同様の施設は、京都(平安京)・大阪(難波)にも設けられていたが、遺構が見つかっているのは、唯一ここだけだ。
なお、鴻臚館跡展示館では「鴻臚館」の遺構や出土品の展示、当時の史料を元に復元した建物などを見ることができるほか、御城印、日本100名城のスタンプも置かれている。
鴻臚館跡展示館
入館:無料
開館時間:9時〜17時
(受付最終16時30分)
休館日:12月29日〜1月3日
福岡と黒田家のゆかり
黒田官兵衛は豊臣秀吉の九州平定の軍監として、1586年(天正14年)に初めて約4千人の兵を率いて海を渡り、毛利・吉川・小早川軍とともに豊前小倉城(現・北九州市小倉北区)に攻め込んでいる。
島津義久の降伏により、秀吉の九州平定が一段落した翌年、秀吉は戦で荒廃した博多に立ち寄り、「太閤町割」という復興プランの策定を官兵衛に命じた。
官兵衛が、「福岡を創った男」と称される所以はそこにある。
それから時が流れ、関ヶ原の戦いを経て、黒田父子は筑前に転封される。
当初入城したのは、小早川氏の居城であった名島城だが、52万石の大名が政務を執る居城としては、手狭で簡素だったことから、新たな城を築城すべく、住吉・箱崎・荒津・福崎の4つの候補地が挙がった。
選ばれたのは堺と並ぶ商人の町・博多と、那珂川を挟んで隣接し、西は糸島を経て唐津、南は太宰府にも連なる要衝の地だった福崎だ。
その際に福崎は、黒田家にゆかりの深い備前の町にちなみ、福岡と改称された。
官兵衛は新城の全貌を見届けることなく、1604年(慶長9年)にこの世を去ったが、長政は周辺の干潟を埋め立て、城下町の整備にも力を入れた。
黒田長政と云えば、父の官兵衛を助けて九州平定、文禄・慶長の役で活躍し、特に関ヶ原の戦いでは東軍について大きな戦功を挙げたことで有名だが、治世においても、博多と交流させることで福岡を成長させた功績は大きく、もっと高く評価されてもいい人物だと思う。
福岡城天守台の謎
さて。
福岡城跡には、東西およそ25メートル、南北22メートル、高さ10メートルの大規模な天守台が現存する。
現在は福岡市内が見渡せる絶好の展望台になっており、歴史に興味があるなしに関わらず、福岡城跡では一番の見どころになっている。
規模から見て、もしここに天守が実際に存在していたとすれば、五層はあったと推測されるが、これまで確かな記録は見当たらず、ミステリーとされてきた。
しかし最近になって、天守の存在をうかがわせる史料がいくつか発見され、そこには「長政が大坂城普請の工事の遅れを取り戻すために、福岡城を崩して石垣、天守の部材を大坂に持っていった」という旨が記されているという。
もしそれが史実だとしたら、
当時は、福島正則が城を幕府に無断で修繕したとして改易されるなど、豊臣恩顧の大名の改易や転封が露骨に行われている時期だっただけに、流れを読んだ長政が、幕府に目をつけられないよう、先んじて天守の解体を行った可能性は高い。
かつて父の官兵衛が、何より黒田家の存続と家族や家臣の安全を守ることが大事とし、自身の信念を曲げて宇都宮鎮房を葬った姿を知る長政だけに、この時にそう考えたとしても不思議ではない。
黒田家のリスク・マネージメントには、現代人も学ぶべき点が多そうだ(笑)。
福岡城に残る、黒田官兵衛ゆかりの地
官兵衛は福岡城の築城が始まると、太宰府天満宮の鳥居の東に一時移住するが、晩年は築城中の福岡城内三の丸に住居「御鷹屋敷」を構えた。
現在は「牡丹・芍薬園」となっているその住居跡には、「黒田如水公御鷹屋敷跡」の石碑が立っている。
なお官兵衛は福岡城の完成を見ないまま、1604年(慶長9年)に療養のために移り住んでいた京都伏見藩邸にて59歳の生涯を閉じ、亡骸は長政により、黒田家の菩提寺である崇福寺に葬られた。
その崇福寺の山門には、かつての福岡城の表御門が移築されている。
ただし舞鶴公園から、崇福寺に隣接する福岡藩主黒田家墓所までは4キロほどあり、歩いて行くには遠すぎるので、クルマを使う方がいい。
ただし駐車場はなく、近くのコインパーキングを利用する必要がある。
ちなみに…
黒田官兵衛が好きで当サイトに辿り着いた方には、以下のページがお勧めだ。きっと小躍りしたくなる情報に出会うことができると思う(笑)。
福岡城の車中泊事情

出典:日本気象協会
普段の福岡城は夜間閉鎖されており、車中泊をしても見るところはないのだが、桜のシーズンはライトアップが行われ、近年は他の時期にもプロジェクション・マッピングのイベントが行われるなど、夜間も賑わうことが多いようだ。
車中泊をするにはトイレが近くに必要だが、「舞鶴公園」の第一駐車場の隣には公衆トイレがある。
前述したように、ここは夜間に入庫はできないが、24時間出庫は可能だ。ただご覧のように料金精算機の前の屋根が大きく出っ張っているので、ハイルーフ車は入庫できるかどうか分からない。
また「大濠公園」の中にもトイレがある駐車場があるが、こちらは午前7時~午後11時以外は、入庫も出庫もできない。
ただ福岡城というより、最寄りの駅である「大濠公園駅」は、夕暮れから屋台が並ぶ天神まで地下鉄で2駅しか離れておらず、すぐ近くに明るい時間の福岡城の観光と夜の屋台めぐりに使える、とっておきのコインパーキングがある。
どのみち博多には無料の車中泊スポットはなく、お酒が好きで福岡城も見たい筆者のような人には、ここはまさに「おあつらえ向き」と云えるだろう。
福岡城跡 アクセスマップ
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