【2022年10月】
車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、平戸の観光&車中泊事情に関する記述です。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

「平戸島」には、鎖国で時間が止まった中世日本の原風景がある。
「平戸」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2013.02.10
2020.12.29
※「平戸」での現地調査は2021年12月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2022年10月に更新しています。
平戸の観光&車中泊事情
平戸のロケーション

出典:平戸市
上のマップ上でオレンジに染められた現在の「平戸」は、黄色で示された長崎県に属している。
ただそれは現代の行政管理上の話であって、過去からの歴史を紐解けば、玄界灘に面した佐賀県の呼子から福岡県の糸島とともに、ひとつの「文化圏」を構成してきたのは明らかだ。
朝鮮半島と中国大陸、しいては東シナ海に対する日本側の「受け皿」であったこの地域には、歴史をそれほど覚えていなくても、日本人なら「あ~そうそう、確かにそういうことを習ったよね」と云える、「元寇」や、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」などの史実が数多く残されている。
とりわけ大陸に近い「平戸」は、中国や欧米とのかかわりが強く、そこから掘り起こしていかなければ、本当のおもしろさは見えてこない。
さて。
現地に行けば分かることだが、「平戸」が「島」であることをご存知だろうか。
江戸時代に整備された平戸往還(平戸藩主の参勤交代に用いられた道)以来、「平戸島」から本土へは、船で平戸瀬戸を渡るのが主な交通手段になっていた。
それは分かるが、平戸大橋が完成したのはなんと1973年(昭和48年)、しかも当初は有料で、無料開放されたのが2010年(平成22年)だというから驚く。
つまりわずか50年ほど前まで「平戸島」は離島で、自由に行き来しやすくなってから10年ほどしか経ていない。
これも「平戸」が時代から取り残された要因のひとつであることは確かだろう。
ちなみに現在の「平戸市」は、2005年に本土側の「川平町」との市町村合併が行われたことで、「平戸島」以外にもその地域は広がっている。
平戸の歴史
「平戸島」は聖徳太子の時代から大陸との重要な交通拠点とされてきた場所で、鎌倉時代にその名が定着したというが、この時代の「平戸」に、華々しい歴史話は見当たらない。
「平戸」が歴史の表舞台に登場するのは、1550年(天文19年)6月のポルトガル船来航以降になる。
当時の日本は戦国時代の真っ只中。
1550年と云えば、まだ結婚したての信長が織田家の当主になる前の話で、下剋上が当たり前の最中に「平戸」を支配していた松浦隆信が、貿易による発展に期待を寄せたのは当然で、これをきっかけに「平戸」は南蛮貿易港を持つ町として、繁栄の道を歩み始める。
また同時にキリスト教も布教が許され、同年9月には鹿児島からフランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師が移住してきた。
フランシスコ・ザビエル
1549年(天文18年)に鹿児島に上陸後、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会創設メンバーの一員。
ザビエルの日本での布教活動は、鹿児島を皮切りに、平戸、山口へと移っていき、通算で2年3か月に及んでいる。
そのうち「平戸」での布教活動はわずか20日間だが、鹿児島における1年間の布教活動より、多くの信者を獲得したとされる。
しかし皮肉にもそれが、後のキリスト教弾圧の舞台となってしまうことに繋がる。
順風満帆に見えた「平戸」繁栄の風向きが変わるのは、天下の行方がはっきりしてきた1500年代の終盤だ。
一大貿易港となった「平戸」には、1584年(天正12年)にスペインとイギリスの船も来航し、貿易面での発展は続いたが、国内では天下統一をめざす豊臣秀吉により、1587年(天正15年)にキリスト教宣教師を国外に追放する法令(伴天連追放令)が発動される。
ただ、「平戸」で本格的に弾圧が始まったのは、キリスト教に寛容であった松浦隆信が亡くなった1599年と云われている。
翌1600年(慶長5年)に勃発したの関ヶ原の合戦後、松浦隆信から家督を継いだ松浦鎮信(しげのぶ)は、徳川家康より6万3千石の所領を安堵され、念願の「平戸藩」が成立する。
三方を海に囲まれた亀岡山に、最初の平戸城が築かれたのもこの頃だ。
1609年、江戸幕府から貿易を許可されたオランダの東インド会社が、「平戸」に東アジアにおける貿易拠点として「オランダ商館」を開設する。
しかし秀吉から始まったキリスト教布教に対する弾圧は、徳川家康にも引き継がれ、1616年にはオランダ・イギリスとの貿易が「平戸」と「長崎」に限定された。
つまり天下人は、海外との貿易で得られる利益と情報は手に入れるが、幕府の身分制度に反するキリスト教の布教が進むことを良しとはしなかった。
キリスト教に対する弾圧は、その後も二代将軍秀忠、さらに三代将軍家光へと引き継がれるが、1637年に幕府が恐れていた出来事が、ついに同じ「長崎」で勃発する。
それが有名な「島原の乱」だ。
「島原の乱」を鎮圧した江戸幕府は、1639年にポルトガル船の来航を禁止する。
いっぽう「平戸」では、1640年に家光の命を受けた大目付の井上政重により、1639年建造の倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、すべての建物の破壊が命じられ、翌年5月にオランダ商館は「長崎」の出島へ移転となった。
これによって33年間の「オランダ商館」の歴史に幕が下ろされ、「平戸」での南蛮貿易は終焉を迎えた。
以降の「平戸」は明治維新を迎えるまで、時代の先端を突き進む都市から、息を潜めたキリシタンが、まるで時が止まったように静かに暮らす、鄙びた島に成り果てた。
平戸観光のキーワード
ここまでの話の展開で明白なのは、「南蛮貿易」と「キリシタン」の2つだが、もともと両者は表裏一体だったので、平戸港の周辺にそれぞれの歴史を刻んだ施設が集中している。
言い換えると、平戸大橋を含む平戸港一帯を観て歩けば、平戸を観光したも同然だ。
ただそれだけだと、観光バスでやってくるツアー客と変わらない(笑)。
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」
もしそこに「車中泊クルマ旅ならでは」と云える深みを加えるなら、2018年に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」の構成要素に指定された、「春日集落」に足を運んでみるといい。「春日集落」は「道の駅 生月大橋」から約3キロ、クルマで5分ほどのところにある。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産

出典:平戸市
キリスト教が禁じられる中で、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら密かに信仰を続けた、潜伏キリシタンの伝統の証しとなる遺産群。
遺産群は12の構成資産からなり、大航海時代のキリスト教布教地の東端にあたる日本の中で、もっとも集中的に布教された長崎と天草地方の半島や離島に点在している。
- 原城跡
- 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
- 平戸の聖地と集落(中江ノ島)
- 天草の﨑津集落
- 外海の出津集落
- 外海の大野集落
- 黒島の集落
- 野崎島の集落跡
- 頭ヶ島の集落
- 久賀島の集落
- 奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
- 大浦天主堂
※平戸には2つの構成要素があるが、中江ノ島は離島なので割愛する。
映画「あなたへ」
「平戸」には他にも、車中泊の旅人なら抑えておきたい観光キーワードがある。
それは高倉健の遺作となった映画「あなたへ」だ。「平戸」には映画のラストシーンが撮影された「薄香」の町がある。
ちなみに「あなたへ」はこんなストーリーの映画。
以下は、筆者が2013年に薄香を訪ねた時の記録をまとめた記事になる。
ただあれから10年近い歳月が過ぎた現在、掲載している「冨永写真館」はシロアリの被害が酷くなり、既に取り壊されてしまったとのこと。
とはいえ、ラストシーンの散骨に使われた漁船「そよかぜ」と、港の景観はほとんど変わらずに残されているようで、平戸観光協会の以下のサイトで、ガイドの申込みを受けつけている。
最後に。
断崖絶壁に囲まれた「平戸島」と「生月島」には、名のある展望所もあるようだが、絶景は佐世保の「九十九湾」で堪能できる。
筆者は類似のコンテンツに時間を奪われることを嫌うので、あえて「平戸」の海岸線は周っていない。
平戸の車中泊事情
まず「平戸」の近辺には3つの道の駅があり、車中泊場所に困るということはないだろう。
また道の駅が苦手という人には、平戸大橋の平戸島側のたもとにある「平戸大橋公園」の無料駐車場でも車中泊が可能だ。
ここにはトイレ(和式)と水場もある。
さて。
この話は「平戸」でどれだけ時間を過ごすかによって変わってくるだろう。
平戸大橋を含む平戸港一帯を観て歩くだけなら、あえて島で車中泊をする必要はなく、次の目的地に合致する道の駅を選ぶのが賢明だ。
ただ時間に余裕があるのなら、風光明媚でリゾート感のある「道の駅 生月大橋」での車中泊がいいかもしれない。
ここなら天気次第で、生月島のドライブにも出かけられる。
佐世保・平戸 車中泊旅行ガイド
長崎 車中泊旅行ガイド




「アラ還」からの車中泊


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