【2023年4月更新】
車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、宮崎県の高千穂に”天孫降臨の地”と伝わる「槵觸(くしふる)の峰」に関する記述です。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

槵觸(くしふる)の峰は、宮崎県の高千穂に残る「天孫降臨神話」の”一丁目一番地”
「槵觸の峰」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2022.12.30
※「槵觸の峰」での現地調査は2022年12月が最新になります。
槵觸(くしふる)の峰 【目次】
槵觸(くしふる)の峰
宮崎県の高千穂にある「槵觸の峰」は、記紀に記された「天孫降臨の地」と古来より伝わる”本物の聖地”だ。
ご承知の通り「天孫降臨の地」は、未だ鹿児島県の霧島なのか、宮崎県の高千穂なのかが、確定できるにいたっていない。
霧島ではこの「天の逆鉾」が頂上に突き刺さった「高千穂峰」が、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が降り立った「天孫降臨の地」とされ、そのランドマークになっている。
それに対して高千穂では、本来はこの「槵觸(くしふる)の峰」が、「天孫降臨の地」の”一丁目一番地”にあたる。
はずなのだが…
インパクトが違うせいか(笑)、霧島と違って高千穂では、町を挙げて「槵觸の峰」をPRしているような雰囲気はなく、どちらかといえば”知る人ぞ知る”マニアックスポットのような感じがした。

出典:高千穂町観光協会
ゆえに、たぶん多くの観光客は、この景色が見られる「国見ヶ丘」を、高千穂の「天孫降臨の地」と勘違いしていると思う。
確かにイメージは大事だと思うが、史実を忠実に伝えることはそれより大切…
後に大和政権を樹立し、21世紀の今日まで続く天皇家の祖先も、最初は少人数で日本へ渡来してきた人々だ。
さすがに天から降臨してきてはおらず、実際には海を渡って来たわけだが(笑)、当初はようやく辿り着いた高千穂で、先住民から隠れるように、この「槵觸(くしふる)の峰」に身を潜めながら、肩を寄せ合って暮らしていたに違いない。
それを思えば、ここに残る史跡は「しょぼい」というものにはならないだろう。
むしろ現実離れした剣が、山の頂に突き刺さっている方がウソ臭い(笑)。
いずれにしても
彼らが新天地で何を思い、どう歴史を動かしていったのか…
それを「槵觸(くしふる)の峰」から連想することこそ、天孫降臨の地・高千穂を旅する醍醐味だと筆者は思う。
さて。
ここからは読みづらいので、槵觸は「くしふる」とひらがなで表記しよう。
その「くしふるの峰」の見どころは、上のマップに記された
①くしふる神社
②四皇子峰
③高天原遥拝所
④高千穂碑
の4ヶ所で、それらを歩いて周るのに1時間ほど要した。
ちなみに、くしふる神社の鳥居の前の広場には、クルマが5.6台ほど置ける駐車スペースがある。
くしふる神社
創建の年代は不明のようだが、一説では日本の初代天皇である神武天皇の即位(紀元前660年)前とも云われている。
ちなみにイエス・キリストは紀元前4年生まれとされており、その説によれば、キリスト教よりも遥か以前から、この地には信仰があったということになる。
ただ日本最古の神社とされる奈良県の大神(おおみわ)神社も、創建は有史以前とされており、一概に「そんなバカな」とは云えない。
くしふる山の中腹に鎮座し、同山を神体山とするため、くしふる神社は長らく本殿を持たなかったというが、江戸時代の1694年(元禄7年)に社殿が建立された。
なお現在の社殿は、昭和58年に再建されたものになる。
祭神は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)の五柱。
瓊々杵尊は天高原より降臨した天照大神の孫、天児屋根命と天太玉命は、ともに占いを行い、天岩戸の前で祝詞を奏上した神様、経津主命と武甕槌命は、葦原中国を平定した神様だ。
大陸でも身分のある一族だったのどうか、また自ら新天地を求めてきたのか、天変地異や多民族からの迫害のために郷里にはいられなくなったのか…
そこまでは分からないが、いずれにしても祀られているのは、一族を無事に高千穂まで率いてきた部族のリーダーと、その側近として活躍した人物だろうと思う。
四皇子峰(しおうじがみね)
くしふる神社から歩いて5分ほど(順路としては、高天原遥拝所を経由して徒歩20分ほど)のところにある四皇子峰は、神武天皇とその兄弟神である四皇子の誕生の地と伝わる聖域だ。
案内板には、彦火火出見尊(瓊瓊杵尊の御子で山幸彦)の御子・鸕鷀草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという。
と記されている。
分かりやすく解説すると、天皇家の家系は
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、高千穂に降臨(大陸から日本に渡来し、高千穂に根を下ろした部族の長)。
瓊瓊杵尊の息子が、彦火火出見尊(ひでほほのりのみこと)。
その息子が、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)。
そしてその息子が、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)で、後に東征を行って奈良を制服し、遷都した橿原で神武天皇に即位して、日本建国を成し遂げたとされている。
神話によると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は現在の延岡でコノハナサクヤヒメと出逢い、結婚したことになっているが…
ここから推察できるのは、大陸から高千穂に辿り着いた天皇家の祖先は、この地で親子3代にわたる時間を費やして力を養い、自力がついたところで高千穂を出て、平野へ進出していったということ。
いくら昔でも、そうトントン拍子にコトが運んだとは思えない(笑)。
その間に「くしふるの峰」の山中から、稲作ができる平地へと移住し、高千穂全域に大陸から引っ提げてきた文化・宗教を浸透させ、盤石となる地盤を築き上げたと考えるほうが自然に思える。
その何よりの成果が棚田で、続いて高千穂神社や天岩戸神社、さらには神楽になるのだろう。
ちなみに2015年(平成27年)に、高千穂町を含む高千穂郷・椎葉山地域は、「世界農業遺産」に認定されている。
高天原遥拝所(たかまがはらようはいしょ)
高天原遥拝所は、くしふる神社の南に連なる小高い丘で、「神話史跡コース」を歩いて10分ほどのところにある。
遥拝とは、はるかに隔たったところから拝むことで、天孫降臨をした神々は、ここから高天原を遥拝したと伝えられている。
それを史実に置き換えると、大陸から渡来し、高千穂に辿り着いた天皇家の祖先は、ここで故郷への想いを馳せながら、祭祀を行っていたということになる。
ちなみに今でも京都御所には、天皇が伊勢神宮に向かって遥拝を行う場所がある。
高千穂碑
「万葉の丘」の石段の上にある石碑で、1967年(昭和41年)に高千穂町の名誉町民・故甲斐徳次郎氏の発意で建立された。
碑には天孫降臨を伝える「日向国風土記逸文」と、大友家持が残した「万葉集」の「古歌」が刻まれているが、場所的には古代からの意味を持つ史跡ではないようだ。
こういう紛らわしいものを混ぜるから、「聖地」が「聖地」でなくなる。できうるならば、駐車場の横にでも移動させた方がいいと思う。
もし「天孫族御一行」の上陸地から、ここまでのルートが判明できたら、「くるふしの峰」は皇室ファンのメッカになってもおかしくない(笑)。