「現存十二天守」と「日本100名城」の、いずれにも数えられている愛媛県の「松山城」を、歴史が好きで経験豊かな「車中泊旅行家」が紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
江戸時代の天守が現存する「松山城」は、国の重要文化財かつ、日本100名城の選定を受けている名城
松山城 DATA
松山城
〒790-0004
松山市大街道3丁目2-46
☎089-921-4873(松山城総合事務所)
松山城 本丸広場 無料
松山城 天守観覧料金 520円
二之丸史跡庭園 入場料金 200円
ロープウェイ・リフト料金
往復券 520円:片道券 270円
松山城駐車場(喜与町駐車場)
※ロープウェイのりばまで徒歩約2分
普通車2時間420円 以降30分100円
8:00~ロープウェイ営業終了時間+30分後
普通車12台
二之丸史跡庭園専用駐車場
31台
無料
2~7月・9~11月:9時~17時15分
8月:9時~17時45分
12~1月:9時~16時45分
(12月第3水曜日は休み)
※上記時間以外は施錠
「松山城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2012.03.17
「松山城」での現地調査は2012年3月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年12月に作成しています。
「松山城」の概要と車中泊事情

松山城の概要
「国の重要文化財」「現存十二天守」「日本100名城」「日本三大平山城」、さらには「日本の歴史公園100選」「美しい日本の歴史的風土100選」「日本さくら名所100選」「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン★」等々、数え切れないほどの肩書を持つ「松山城」だが、
地上から撮影した写真とテキストで、それを伝えるには限度がある。

出典:JR西日本
今はドローンという素晴らしい”飛び道具”があるので、こういう時はそれを拝借するのがいちばんいい(笑)。
ご覧の通り、デッカくて、カッコよくて、まさに要塞と呼ぶに相応しい様相を持つ「松山城」は、「完全城郭建築」で築かれた『日本で最後の城』と云われている。
築城以来250年近い歴史を誇る、「松山城」の天守が再建されたのは、黒船来航の翌年にあたる幕末の1854年(安政元年)。
それからわずか13年後の1867年に「大政奉還」が行われ、さらに1873年に明治政府から「廃城令」が発令されて、『お殿様の城』が終わりを告げるのだから、まさに『武士の時代』の「ラスト・キャッスル」と呼べる存在だ。
『なのに、なんで「国宝」じゃないの?』
いい質問です(笑)。

出典:東京都古書籍商業協同組合
実は「松山城」は1934年(昭和9年)に、一度「国宝」に指定された経緯を持つ。
しかし、1950年(昭和25年)に施行された「文化財保護法」で基準が変わり、城郭の国宝は、建物の完成が「日本の城郭様式が定まった」とされる江戸前期か、それ以前とはっきり証明できるものだけに限定されたことから、「重要文化財」に格下げされてしまった。
しかし「元」がつくとはいえ、それなりの価値があることを専門家が認めていることに変わりはない。
松山城のおいたち
具体的な松山城の話の前に、ここで町の歴史を簡単に振り返っておこう。
戦国時代をよく知る人には、いまさら説明する必要がないと思うが、九州と四国には「歴史の断層」のようなものがある。
簡単にいうと、突然「支配者」が代わり、それとともに城まで代わる、まさに歴史がプツリと途切れた痕跡だ。
そして、その人災を引き起こしたのは、後に天下人となる「豊臣秀吉」だった。
戦国時代の松山を治めていたのは、室町時代から守護職として「伊予」に君臨してきた「河野氏」だったが、家督争いで勢いを失い、安土桃山時代に四国で強大な力を誇った「長宗我元親」の配下に落ちていた。
しかし「長宗我元親」が、「秀吉」の”四国成敗”でその軍門に下ると、松山は「小早川隆景」の手に落ち、「河野氏」の居城であった「湯築城」は破却され、新たに「松山城」が築城されることになる。
江戸時代の「湯築古城図」には、「湯築城」が内堀と外堀をもち、丘陵頂部の「本壇」のほかに、北方の「杉の壇」・東方の「中壇」の郭と、家臣居住空間等を構えた大規模な平山城であったと記されている。
「道後温泉」の近くにある城跡は、一時期は動物園や植物園、また遊園地になった時期もあったというが、現在は発掘された遺跡を囲む「道後公園」として整備されており、こちらも国指定文化財・日本100名城に認定されている。
いずれにしても2つの巨城からは、当時から松山が、瀬戸内の海運を握る重要な要害であったことがうかがえるだろう。
さて。
松山城の築城に着手したのは、もともと「秀吉」の家臣で、関ヶ原の戦いでは徳川についた「加藤嘉明(よしあき)」だ。
だが、松山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった「蒲生氏郷」の孫の「蒲生忠知(がもう ただとも)」が後を継いで、二之丸などを完成させている。
しかし「蒲生氏」は跡継ぎに恵まれず、在藩7年でお家断絶となってしまう。
そして、いよいよ真打ちが登場する。
「徳川家康」の甥にあたる「松平定行」が城主となるのは1635年。以降、明治維新までの235年間にわたり、松山藩は四国の親藩大名としての役目を担っていく。
この間に天守は、1642年に五重から三重に改修され、更に1784年の落雷で焼失した後、幕末の1854年に再建されて今日に至っている。
冒頭で書いたように、そのせいで「国宝」からは外されたが、「現存十二天守」は『江戸時代以前に建造された天守が現在まで残っている』ことが基準なので、「松山城」も名を残すことができているわけだ。
この際なので、ついでに「現存十二天守」も記しておこう。
弘前城(青森県弘前市)/松本城(長野県松本市)/丸岡城(福井県坂井市)/犬山城(愛知県犬山市)/彦根城(滋賀県彦根市)/姫路城(兵庫県姫路市)/松江城(島根県松江市)/備中松山城(岡山県高梁市)/丸亀城(香川県丸亀市)/松山城(愛媛県松山市)/宇和島城(愛媛県宇和島市)/高知城(高知県高知市)
書くからには、もちろん全部訪ねている。
松山城の見どころ
まず「松山城」の天守と石垣、そして日本で唯一現存している望楼型二重櫓の「野原櫓」は、江戸時代から引き継いでいるものだが、それ以外の30棟もの櫓や門・土塀などは、1966年から全国にも例を見ない総木造づくりで復元してきたもので、それらが融合して現在の美しい姿を見せている。
それを可能にしたのは、昭和初期に旧国宝に指定される際に、測量図面や古写真をまとめていた資料の存在だ。
おかげで焼失前の姿に木造復元することが可能になったというのだから、何が効を奏するかわからない。
もしかしたらこの資料こそが、「国宝」と呼べる「お宝」かもしれない(笑)。

出典:松山市公式観光WEBサイト
ちなみに、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の1つ星に選定されているのは、この松山城の天守から見た景観だ。
ひとつ上の写真も同じ場所から撮影しているのだが、あいにく天気がいまひとつで、筆者は生でその感動は得られなかった。
ただし、学術的に「松山城」最大の見どころと云われているのは、これじゃない。

出典:松山城
本当と呼べる松山城の見どころは、この「登り石垣」になる。
「松山城」は、中国の「万里の長城」と同じように、山腹から敵の侵入を阻止するために、麓の館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結している。
これは「豊臣秀吉」が朝鮮出兵(1592年~1598年)の際に築いた「倭城」で採用された防備手法と云われ、国内の「現存12天守」の城郭でも、「松山城」と「彦根城」だけにしかないという。
だが、これがまた地上写真では分かりにくいから困ったもんだ(笑)。

出典:EEKの紀行 春夏秋冬
というわけで、これを見ればスッキリすると思うが、実は「登り石垣」を見るには、”ちょっとしんどい思い”が必要だ。
それは次の「本丸へのアクセス」を読めばわかる。
本丸へのアクセス
「松山城」は高台にあるため、現代人には身分にかかわらず、ロープウェイかリフトを利用して登城することが許されている。
だが、ここで楽な道を選ぶと「登り石垣」は見られない。

出典:松山城
「登り石垣」を歩くベストルートは、スロープになっている❸の「県庁裏登城口」で、本丸までの所要時間は約30分。
また江戸時代までの登城ルートは❹の「黒門口登城道」で、本丸までの所要時間は同じく約30分になる。
クルマがなければ、行きはロープウェイかリフトを利用し、帰りに❸か❹を歩くという手もあるが、「二之丸史跡庭園」から「松山城駐車場」まではクルマが通れる道で約2キロある。
それを考えると、本当の「万里の長城」みたいな景色が見られるわけではないので、普通に観光するだけなら、あえて頑張らなくても、天気が良ければ「ミシュラン」気分を味わうだけでもいい気はするね。