日本史と大河ドラマ好きの車中泊旅行家が、大河ドラマとのゆかりやトリビアを加えてまとめた、日本100名城に名を連ねる高知城の概要と駐車場・車中泊事情です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「高知城」は史跡としてより、そこに刻まれた土佐藩の歴史のほうが圧倒的におもしろい!
高知城 DATA
高知城
〒780-0850
高知市丸ノ内1丁目2-1
☎088-824-5701(高知城管理事務所)
●高知公園
入園無料、散策自由
●高知城天守・懐徳館・東多門・廊下門
おとな420円
※他施設の共通入場券740円あり
9時~17時(受付最終16時30分)
12月26日~1月1日 休館
高知公園駐車場
65台
最初の1時間370円、以降30分毎に110円
車中泊不可
「高知城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.07.09
2012.11.25
2020.06.21
「高知城」での現地調査は2020年6月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年12月に作成しています。
「高知城」の概要と車中泊事情

高知城のプロフィールとトリビア
築城以来400年余りの歴史を持つ「高知城」は、日本史に興味がある・なしに関わらず、高知市を訪れる観光客の大半がとりあえずは訪れる、この地の「ランドマーク」的な存在だ。
たとえば、「高知城」は江戸時代に築かれた天守が残る「現存十二天守」のひとつだが、「天守」と正門にあたる「追手門」が当時のまま見られるのは、日本中でこの「高知城」しかない。
しかも誰でもスマホで簡単に、その貴重な景観を写真に撮ることができる。
そう云われると、ここからその写真を撮って帰りたいとは思わないか…
ただクルマ旅では、有料駐車場にクルマを停める必要がある。
ゆえに行かれる人には、サクッと「高知城」の予習をお勧めしたい(笑)。
「高知城」は関ヶ原の戦いの後、その功績により、「徳川家康」から土佐一国を拝領した「山内一豊」が、1603年(慶長8年)に築城した。
江戸時代に城下町の大火で、「追手門」以外の建造物を焼失するが、1749年(寛延2年)に再建され、そのまま明治維新を迎えたものの、廃城令により『本丸と周辺の建造物及び追手門』のみが残され解体。
1874年(明治7年)に「高知公園」として生まれ変わった経緯を持つ。
ここでもうひとつ、歴史に関するトリビアを紹介しよう。
「高知城」の入口には「国宝高知城」の石柱が立っている。
だが現在の「高知城」は、「国宝」ではなく、ただの「国重要文化財」だ。
3層6階の「天守」や「追手門」など、15棟の建造物が築城時の状態のまま残る「高知城」は、1934年(昭和9年)に「国宝保存法」により、確かに一度は「国宝」指定されているので、この石柱は偽りではない。
ところが、
戦後の1950年(昭和25年)に施行された「文化財保護法」で基準が変わり、「高知城」は「国宝」の資格を失い、国重要文化財に格下げされてしまった。
理由は、城郭の国宝は建物の完成が「日本の城郭様式が定まった」とされる江戸前期か、それ以前とはっきり証明できるものだけに限定されたからだ。
前述したように、「高知城」は焼失により江戸中期に再建されていることが判明しているため、『日本の城郭様式が完成された時期の建物』には明らかに該当しない。
とはいえ、
歴史や建築の専門家などが参画し、多角的な視野に立つ審査の上で選定された「日本100名城」には名を連ねており、『見学に値する価値』は国宝であろうがなかろうが変わらないと思う。
建造物としての「高知城」の見どころ
筆者がそう語る大きな理由は、「高知城」は「天守」と「御殿」が築かれ、城内でもっとも重要な場所とされてきた「本丸」が、現存している日本で唯一のお城でもあることに起因している。
「上段の間」は「御殿」の中にある藩主の御座所。白い「帳台構え」は、中に護衛の武士が隠れられることから、「武者隠し」とも呼ばれている。
野面積みの石垣は、「現存12天守」の城では珍しいものではない。
だが、そこから「飛び込み台」のように突出した「石樋(いしどい)」は、「高知城」ならではの仕掛けだ。
高知県は昔から降水量が多く、排水に注意が図られてきた。雨水が石垣に染み込めば、崩れる要因になりやすい。
それを防止するため、「石樋」は各曲輪からの排水を、直接石垣に触れることなく地面に流す役割を果たしている。
他にも細かいことを言い出せば、キリがないのが「お城」というものだが、「高知城ならではの特徴」で外せないのは、このくらいかな。
物足りないという人には、続きをオフィシャルサイトでご覧いただきたい。
見学には「無料ガイド」がお勧め!
実は”難攻不落”の「高知城」を、手っ取り早く攻略する方法がある。
「高知城」内の観光案内所では、無料のガイドを受け付けている。それに参加するなら、あえて予習をして行く必要もない。
ガイドは2種類あり、ひとつは約1時間半で天守まで案内してくれる「定時ガイド」で、午前9時10分と午後13時30分出発の1日2回行われている。
もうひとつは、高知城観光案内所から本丸御殿前にいたる、約50分間の個別ガイドで、随時案內してもらえる。
ただあまり何も知らないと、ガイドさんも張り合いがないので、多少は勉強していくほうが喜ばれる(笑)。
ちなみに、全国のお城に共通する「用語集」は以下の記事にまとめてあるので、必要であれば参考にどうぞ。
ということで次は「土佐藩」の話に進むが、ここからは「大河ドラマ」を見ていた人ほどよくわかる。
なので『そこまではけっこう』という人には、車中泊事情までジャンプしてもらってもかまわない(笑)。
土佐藩成立までの経緯
戦国時代に「群雄割拠」の土佐を統一したのは、「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」だった。
「元親」はさらに四国平定に乗り出したが、1585年(天正13年)に四国に進出してきた「豊臣秀吉」に敗れ、元の鞘である土佐一国の領主に収まった。
その後、「元親」は上洛して「秀吉」に謁見し臣従を誓う。
1590年(天正18年)の小田原征伐に水軍を率いて参戦するなど、「元親」と「秀吉」には良好な信頼関係が続いていた。
そのような経緯から、「元親」の後を継いだ「盛親」は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の合戦」に西軍として参陣するが、敗れて領地を改易される。
翌1601年(慶長6年)、土佐には「長宗我盛親」に代わって「山内一豊」が、24万石の国主として入国する。
しかし「長宗我部氏」の家臣団は、「浦戸城」の引渡しを拒否し、「浦戸一揆」を起こして抵抗した。
その結果、「山内一豊」は表面上は「長宗我部氏」時代の政策の尊重を掲げつつ、実際には旧「長宗我部氏」家臣に対する厳しい差別と弾圧を行い、土佐藩の基礎を築いていくことになる。
この騒動がきっかけで、土佐藩には「長宗我部氏」の流れをくむ「下士」と、「山内氏」に伴って土佐入りした「上士」という武士の身分制度が生まれ、それが幕末まで、200年以上にわたって脈々と引き継がれていった。
長宗我部盛親の「その後」
実は「盛親」には、土佐を没収される代わりに「御堪忍分」というかたちで替地を与えられる予定だったのだが、予期せぬ「浦戸一揆」の責任を問われ、「家康」にその支給を反故にされた。
大名家としての「長宗我部氏」は、この時をもって滅亡するが、「盛親」はその後、大阪と伏見に身を隠し、復活の時をうかがっていた…
そしてめぐってきたのが「大坂の陣」だ。
「盛親」は「長宗我部家」の再興を願う旧臣たちとともに、「真田幸村」率いる豊臣軍として戦うが、最後は徳川軍に敗れ、名実ともに滅亡した。
ちなみに「真田丸」で「盛親」を演じていたのは「阿南健治」。「盛親」が歩んできた苦節の人生をにじませる、何とも人間臭い演技がとても印象的だった。
初代土佐藩主「山内一豊」
土佐の藩祖「山内一豊」は、流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、「織田信長」の家臣「木下藤吉郎」の下で力をつけて台頭する。
「秀吉」が天下人になると、さらに数々の武功を重ね、近江長浜2万石、さらに遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営にも手腕を発揮した。
「秀吉」亡き後は「石田三成」と反りが合わず、「関ヶ原の戦い」で徳川方に味方し、土佐24万石の国主となって「高知城」を築城する。
NHK大河ドラマ「功名が辻」
「功名が辻」は、「山内一豊」と妻「千代」の生涯を描いた、「司馬遼太郎」の歴史小説を原作に、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマで、「山内一豊」を「上川隆也」、「千代」は「仲間由紀恵」が演じている。
「高知城の御殿」には、ドラマで「仲間由紀恵」が来た着物が今も展示されている。
またこちらのサイトでは、その映像が見られる。
「高知城内」には、千代の内助の功の逸話を伝える記念碑も建てられている。
大政奉還のキーマン「山内容堂」
「山内容堂」は、「坂本龍馬」が生きていた時代のお殿様。
生母が父の10代藩主「豊著(とよかず)」の側室だったため、お城のすぐ近くにあった追手邸で生まれた。もともと当主になる目はなかったが、13・14代藩主があいついで急病死したのを受けて、「土佐藩」15代藩主に就任した。
後に「四賢侯」の一人と称される「容堂」は、「坂本龍馬」が発案したとされる「船中八策」を、藩政の「後藤象二郎」から進言され、「徳川慶喜」に「大政奉還」を建白する。

出典:NHK
大河ドラマ「龍馬伝」では、「近藤正臣」が怪演。時に鋭く、時に虚ろなその目つきで、これまでに見たことのない斬新な殿様像を見せてくれた。
ちなみにドラマでは、「龍馬」も「後藤象二郎」とともに「高知城」にあがり、「容堂」公に建白を嘆願するが、「龍馬」はお城に入れる身分ではなかったため、そのシーンはフィクションのようだ。
自由民権運動の指導者「板垣退助」
最後に、高知城の追手門をくぐってすぐの石段の登り口に立つ、気になる「髭男爵」の紹介をして終わろう。
明治維新以前は土佐藩士だった「板垣退助」は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の閣僚だ。
「板垣家」は、「武田信玄」の家臣で有名な武田四天王のひとりである「板垣信方」を祖とする家柄で、「板垣信方」の孫「正信」は、「武田氏」滅亡後、遠江国掛川城主となった「山内一豊」に召し抱えられ、土佐へやってきたという。
ちなみに、「板垣退助」は「後藤象二郎」と竹馬の友で、「坂本龍馬」とは明治以降に親戚となる。
なお「板垣死すとも自由は死なぬ」の名セリフは、ここではなく岐阜城で襲撃された時に放っている。
このように「大河ドラマ」で云えば、大きく2つの作品に登場してくる高知の著名人ゆかりの「高知城」は、歴史を知っている人間にはかなり興味深い史跡だ。
そのため城下も細かく見れば、「そうか、ここか」と思う場所がたくさんある。
興味がある人なら、以下の記事もたぶんおもしろいと思う。
高知城 アクセスマップ
高知城周辺のお勧めスポットと車中泊事情

出典:高知城オフィシャルサイト
「高知城」の観光は、高知市郊外にある「桂浜」との兼ね合いになると思うが、そのタイミングにはランチにしても夕食にしても、高知のソウルフードの殿堂と呼ぶべき「ひろめ市場」に行く時間を考慮すべきだと思う。
以下の記事には「ひろめ市場」の詳細を、夜に繰り出す際の車中泊スポットを含めて詳しく紹介しているので、ぜひ参考に。
また高知市内周辺の車中泊スポットは、こちらの記事に詳しくまとめている。

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