日本史と大河ドラマ好きの車中泊旅行家が、高知市内に残る龍馬伝ゆかりの感慨深いスポットを紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「龍馬伝」に登場した、「坂本龍馬」にゆかりの深い人物に思いを馳せる。
まず、「高知市内に残る、坂本龍馬&龍馬伝ゆかりの地」の【本編】については、以下の記事にまとめている。
ここではその本流から逸れた、どちらかというとマニアックなゆかりの地をピックアップしてみた。
せっかく遠路はるばる高知市にまで足を運ぶのだから、細かな史実にこだわりすぎるより、ドラマの中で印象深かった登場人物にゆかりのある場所を訪ねるほうが、おもしろいんじゃないかと思ってね(笑)。
高知市内に残る、「龍馬伝」を見ていた人ならわかる”追憶”の場所

「坂本家」の墓所
「坂本家」一族の墓所は、通称・丹中山(たんちやま)の中にある。
元々は2ヶ所に分かれていたが、現在は史跡として整備され、「龍馬」の父「八平」を筆頭に一族21人が眠っている。
高知市が公式ホームページで紹介しているくらいなので、観光客がお参りに行っても構わないということだろう(笑)。
せっかくなので、ここで坂本家についてもふれておこう。
「坂本家」の系譜
「坂本家」のルーツは、質屋の「才谷屋」を営んでいた、「龍馬」の4代前にあたる「大浜直益」が「郷士」の株を買い、長男の「直海(龍馬の曽祖父)」に分家を立てさせたことから始まる。
本来の「郷士」は、武士の待遇を受けていた農民を指す言葉だが、江戸時代の後期には、生活に困窮した「郷士」が、その株を商人に売ることもあったようだ。
「土佐藩」の場合、「郷士」は「長宗我部元親」を支えた半農半武士軍団「一領具足」の末裔が多いとされるが、「坂本家」の先祖は江戸時代の初めに、山城国(京都府)から引っ越してきた部外者らしい。

出典:NHK
ここからは「龍馬伝」のキャストで家族を紹介していこう。
「草刈民代」が演じた実母「幸」は、「龍馬」が12歳の時に亡くなっている。
ドラマでは、「龍馬」が京都の定宿にしていた「寺田屋」の女将「登勢」を一人二役で演じていたのが懐かしい。
また父「八平」役の「児玉清」は、「龍馬伝」が遺作となった。
ところで、「龍馬」の子役を演じた「濱田龍臣」くんの隣に立つ、「乙女」役の娘さんが誰だか分かるだろうか?
彼女はのちに朝ドラのヒロイン「まれ」となる、女優の「土屋太鳳」ちゃんだ。
確かにそういわれると面影が…
最後は「龍馬」の兄「権平」役の「杉本哲太」と、妻「千野」役の「島崎和歌子」。
「龍馬」と20歳離れた「権平」は、自分の次に「坂本家」を継ぐよう、再三「龍馬」に手紙を出したが、「龍馬」は『40歳になるまで、自由にさせてもらいたい。その後は土佐に帰るから』と答えていたそうだ。
しかし「龍馬」が33歳でこの世を去ったため、「権平」は「龍馬」の姉である「千鶴」の息子「直寛」を「龍馬」の養子にし、郷士「坂本家」を継がせている。
その後「坂本直寛」は、北海道の開拓に尽力して移住する。
そしてその子孫の「坂本直行」の描いた絵が、帯広市の製菓会社「六花亭」の包装紙に使われ、話題になった。
武市瑞山(たけちずいざん)先生殉節之地
「土佐勤王党」を率いた「武市瑞山(武市半平太)」が、「吉田東洋」暗殺事件の罪で投獄され、切腹した場所が「四国銀行帯屋町支店」の角にひっそりと立っている。
坂本龍馬と武市半平太
「坂本龍馬」と「武市半平太」は、同じ道場で剣術を習う幼馴染みで、遠縁に当たるともいわれている。
ただ幼馴染みとは云え、「半平太」は「龍馬」より7歳上の、「兄貴分」にあたる存在だった。
また「武市家」は元々土着の豪農だったが、「郷士」よりさらにランクの高い「白札郷士」に位置づけられていた。
いずれにしても、2人ともお金に困ることのない恵まれた環境で育っており、共通点は多かったようだ。
土佐藩の不条理な身分制度に強い不満を抱く2人だったが、「武市」はやがて「長州藩」の「久坂玄瑞」に傾倒し、「久坂」の師である「吉田松陰」の「尊皇攘夷思想」に共鳴して、「土佐勤王党」を結成する。
「龍馬」も当初はそれに参加しており、「武市」の使いで萩まで足を運んでいる。
その「土佐勤王党」が起こした事件が、「吉田東洋」暗殺事件だ。
「吉田東洋」は徳川寄りの姿勢をとる土佐藩主「山内容堂」の右腕として、藩政の実権を握っていた人物だったが、この一件を境に、藩論は一気に攘夷派へと傾いた。
勢いづいた「武市」は、「土佐勤王党」を率いて「土佐藩」の藩論を「尊皇攘夷」で統一しようと図ったが、1863年(文久3年)に「長州藩」が京都で失脚し、「尊王攘夷派」の勢いが衰えるのを見計らって、「山内容堂」は「土佐勤王党」の本格的な粛正に乗り出す。
「武市」は「吉田東洋暗殺」の首謀者として捉えられ、この地にあった南会所の牢に投獄されるが、拷問を受けてもそれを認めず、「主君への不敬」という罪状をもって享年37歳で切腹となった。

出典:NHK
俳優の「大森南朋」が演じた「武市半平太」は、最期は腹を三文字に斬り、不屈の信念を最後まで見せつけたというが、「龍馬伝」で切腹を申し付ける前に対面した「容堂」が、『お主が長宗我部でなければ…』とつぶやいたセリフは、今でも記憶に残っている。
平井収二郎先生誕生之地
「平井収二郎」は土佐藩の「郷士」で「龍馬」の幼馴染みだったが、優柔不断に見える「龍馬」を嫌っていたようだ。
「龍馬伝」では「宮迫博之」が演じていたが、知略に優れ、「武市半平太」が「土佐勤王党」を結成すると、その側近となって活躍するが、「山内容堂」の怒りを買って切腹を命じられた。
さて。
筆者がここを取り上げた理由は、「龍馬」の初恋の人と云われる「平井収二郎」の妹、「加尾」の実家でもあるからだ。

出典:NHK
配役はご当地女優の「広末涼子」。
「加尾」は「龍馬」より4歳年下で、”才色兼備”だったと云われている。
「龍馬伝」では、「加尾」が「龍馬」に思いを寄せていたにもかかわらず、「龍馬」と「加尾」が近づくことを警戒した「収二郎」が、朝廷工作として「三条家恒姫」の付き人として京に送ってしまった。
「龍馬」には「加尾」のほかにも、北辰一刀流の剣術開祖「千葉周作」の姪にあたる「佐那」との恋話があったようだが、いずれも進展せず、京都で出会った「お龍(おりょう)」を妻に迎えている。