この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

真田丸があった本当の場所が判明したのは、つい最近。
NHKの「歴史ヒストリア」をご覧になられた方はご承知だと思うが、2016年の大河ドラマで有名になった、「大阪冬の陣の主戦場である真田丸」は、その詳しい場所と本当の姿が、つい先日まで判らないままだった。
しかし「大阪夏の陣」から400年の歳月を経て、大河ドラマ「真田丸」の放送が決まったおかげで、ついに科学的な検証が入り、真田丸が従来考えられていたものとは大きく異なることが判明した。
本当の真田丸は、大阪城から離れた天然の崖の上に広がる高台にあったことは分かっていたが、その名残がわかる遺構が心眼寺だ。
確かにお寺の入口には、「真田幸村出丸城跡」の碑が立っている。
さらに境内に入ると、「豊臣信繁」と刻まれたお墓がある。
元々の心眼寺は「大坂冬の陣」のあと、徳川との和睦条件に従い、真田丸とともに取り壊されている。
現在の心眼寺は、「大坂夏の陣」から7年後の1622年(元和8年)に、真田家の祖先・滋野氏の一族といわれる白牟(はくむ)和尚により、真田幸村・大助父子の冥福を祈るために建立された。
門に真田家の家紋の「六文銭」があるのはそのためだ。
ただし当時は幕府の直轄地だったこともあり、信繁父子の墓は作られなかった。
写真の墓碑は、400回忌にあたる2014年(平成26年)に建てられている。
「豊臣信繁」になっているのは、1594年(文禄3年)に従五位下左衛門佐に叙位任官した際に、秀吉から豊臣姓を授けられたことに由来する。
ドラマに描かれたとおり、幸村は若い時から秀吉の「お気に入り」だった。
心眼寺は今でも高台にあり、ここが真田丸の堀に面した壁であったことを裏付けている。
それにしても先ほどの景色から、かつてはこうだったことが分かるなんて現代の検証技術は素晴らしい。
もちろんここまで辿り着くには、空襲で建物が焼失した、戦後まもなくの頃に撮影された航空写真と、古文書に残されていた「真田丸」の絵図の照合、さらにはエコーによる地下の地形の測量など、多くの情報を結集している。
ここはそういうトリビアを知ってから行かないと、たぶん感激しないだろう。
さて。
心眼寺の近くには、もうひとつ「真田丸」ゆかりの場所がある。
三光神社にある「真田の抜け穴址」には、ここから堀をくぐって大坂城へ通じる地下道が繋がっていたという伝説が残されているのだが、今は塞がっている。
諸説諸々を見る限り、その話は「伝説の域」を出るものではなさそうだが、抜け穴は真田家の得意技だっただけに、もしかしたら「真田丸」のように、「大どんでん返し」の事実がいつか見つかるかもしれない(笑)。
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