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車中泊で行く、彦根城

おんな城主 直虎
彦根城
「正真正銘のプロ」がお届けする車中泊旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
https://kurumatabi.net/2019/05/27/history/

築城400年。国宝にして世界遺産候補の彦根城

一時のブームがおさまったとはいえ、今でも「ひこにゃん」人気の影に埋もれたまま… そんなイメージが拭えない彦根城だが(笑)、実はこの城が築城400年、国宝にして世界遺産候補であることをご存知だろうか。

井伊直政

大河ドラマ「おんな城主直虎」で、菅田将暉が好演した勇猛果敢な初代藩主・井伊直政が、関ヶ原で負った傷の代償として手に入れた彦根城を、どこからどう語ればいいのか… 

ずいぶん迷ったが、とりあえず戦国時代まで遡り、「彦根」がどういう場所であったかを知ることから始めるとしよう。


<目次>

■プロローグは、佐和山城

■彦根城の歴史

■彦根城の魅力は「城郭」

■彦根城の見どころ

■彦根藩15代藩主が、幕末の大老「井伊直弼」

なお、駐車場&車中泊事情とキャッスルロードについては、以下の別記事にまとめている。


プロローグは、佐和山城

もともと彦根を治める領主の居城は、写真手前の佐和山にあった。

このあたりは、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝で、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となってきたが、戦国時代には小谷城の浅井長政と、尾張から天下統一をめざして上洛を目論む織田信長が、近くの姉川で激突する。

浅井三姉妹

その結果、小谷城は落城し、浅井長政は自刃。大河ドラマにもなった「浅井三姉妹の数奇な人生」はそこから始まるわけだが、その後の彦根は、信長と秀吉の下で落ち着きを取り戻す。

佐和山城

そして石田三成が城主の時代(1595~1600)に、それまで砦(とりで)程度だった佐和山城は、本格的な城郭として建て替えられ、五層の天守を構えるみごとな山城へと変貌を遂げた。

しかし、その名城も関ヶ原の戦い後に落城、代わって徳川四天王のひとり、井伊直政が領主となる。

彦根城の歴史

当初は佐和山城をそのまま井伊家が引き継ぐ予定だったが、家康はくすぶり続ける豊臣勢に対する守りの拠点として、新たに城を築くよう直政に命じる。また直政も三成ゆかりの城が嫌だったようで、城の移転を希望していた。

しかし直政は、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去。家督を継いだ井伊直継(なおかつ)が幼少であったため、家老の木俣守勝が亡き主君の遺志を継いで家康の指示を仰ぎ、翌年に彦根城の築城に着手する。

築城は「天下普請」とされ、徳川親藩の尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝いを命じられる、国家的事業であった。

彦根城

「天下普請」は1606年(慶長11年)の天守落成で終わりを迎えるが、1616年(元和2年)から今度は彦根藩のみの手による増築が始まる。

すべての工事が完了したのは1622年(元和8年)。着工からすでに20年の歳月が流れていた。

実はこの間に、大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣した直孝が家督を継ぎ、続く夏の陣でも大功をあげて、父・直政に劣らぬ武将として名を挙げる。

その後直孝は、秀忠・家光・家綱の三代にわたる将軍の執政として幕府に貢献し、彦根藩はその恩賞として3度加増され、30万石の大大名となる。

浜松の龍潭寺

この井伊家の大躍進には、龍潭寺に眠る直虎も喜んだに違いない(笑)。

彦根城の魅力は「城郭」

かような由緒を持つ彦根城は、地元のおばさんたちのウォーキングコースだけではなく、明治の廃城令と太平洋戦争の戦禍を免れ、「戦国時代の城郭」を現代に伝える「希少な史跡」という顔を持つ。

彦根城の城郭

この写真はマップの★印の位置から撮影したものだが、手前が佐和口多門櫓で、天守の左に見えるのが天秤櫓

細かな説明はオフィシャルサイトにリンクしているので省略するが、完全な「城郭」が残る城は、この彦根城と世界遺産に登録された姫路城しかない。

ところで。彦根城に限らず戦国時代の城郭では、「最後の砦」となる「天守」は、そう簡単には見ることができない場所に建てられていた。

国宝 松江城

写真は彦根城とほぼ同年代の1607年(慶長12年)に築城が始まり、 1611年(慶長16年)に完成した国宝の松江城だが、1614年の大阪冬の陣で、家康が大阪城攻略に「大筒」を用いたことでも分かる通り、もうこの時代には「城外の近距離に見晴らしの良い場所」があれば、そこから狙われるという認識があったのは間違いない。

ゆえに体力的にはキツイのだが、城内とお堀沿いをじっくり一周すれば、「城郭の構造」や「各建物の役割」といったものが見えてきて、他では味わえない面白さが彦根城にあることに気がつくと思う。

彦根城の見どころ

彦根城最大の見どころは、「牛蒡(ごぼう)積み」と呼ばれる石垣の上に築かれたこの三重三階の天守だ。京極高次が城主を務めた大津城から移築されたものともいわれ、国宝に指定されている。

ちなみに「牛蒡積み」とは、野面積みの一種で、胴長な石の小さい面を前面に出し、長細い面を奥にする積み方。見た目は悪いが堅固な石垣になるという。

彦根城の破風

さらに天守には3種の破風(はふ)様式が取り入れられ、二重目以上の窓には曲線の美しい華頭窓(かとうまど)が使われている。実は彦根城は現存12天守の中で最多の破風を誇っており、華頭窓の数も一番多い。

桜の季節の彦根城

だが、この天守が本当に素晴らしいのはその「眺望」だ。特に桜の季節は圧巻というしかない。これが見られるだけでも「春は行く価値あり」だろう。

彦根城の天守の中

ただし、帰りはちょっとした試練が待っている(笑)。ここには大きなリュックを背負って行かないほうがいい。

彦根城の天秤櫓

いっぽうこちらは天秤櫓(てんびんやぐら)で、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれている。

井伊家の歴史書「井伊年譜」によれば、この櫓は秀吉が築城した長浜城の大手門を移築したものだという。

大堀切

表門から石段を登ると、迫力ある石垣と立派な橋が見える「天秤櫓」の裏を通る。筆者が歩いているのは「大堀切(おおほりきり)」と呼ばれる道だが、実はこの上の橋を渡らなければ、本丸へは侵入できない作りになっている。

つまり表門を突破して城内になだれ込んできたとしても、そそりたつ天秤櫓の高い石垣を登らないかぎり先には進めず、ここで上から狙い撃ちに遭うという算段だ。

彦根城の櫓

この時代の櫓(やぐら)は武器・食料の倉庫というより、防御や物見、あるいは攻撃のために建てられたもので、普段は家老の執務室を兼ねていた。

彦根城には、ほかに西の丸三重櫓太鼓門櫓・そして前述した佐和口多聞櫓があるが、天秤櫓だけでなく、いずれも外部からの移築と見られている。

築城時には櫓以外にも、長浜城や佐和山城などから数多くの資材が運び込まれているのだが、クレーンやユンボなどの重機がない時代の突貫工事だけに、転用はありがたかったに違いない。

彦根藩15代藩主が、幕末の大老「井伊直弼」

さて。「井伊」と聞いて「直政」と続ける人は、大河ドラマを見ていたか、歴史好きの部類に入ると思う。普通はともかく、受験生なら間違いなく「直弼(なおすけ)」と答えるはずだ(笑)。

手っ取り早く「井伊直弼」のプロフィールを紹介すると、14男で側室の腹から生まれたため、藩主になるなど「あり得ないはず」の境遇だったが、彦根藩の継承者が次々と亡くなり、奇跡が起きる。

彦根藩主となった直弼は、培ってきた豊かな教養を発揮し、藩政改革を推進する。その姿が中央の目に留まり、雄藩が台頭する中で衰えが顕著になった江戸幕府の救世主として、幕末の大老に抜擢された。

桜田門

ここから先は、もうよくご存知だろう。

朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約に調印し、「安政の大獄」で国内の反対勢力を粛清するが、江戸城の「桜田門外」で反対派からの奇襲を受けて、この世を去る。

楽々園

「楽々園」と呼ばれるこの建物は、かつて槻御殿(けやきごてん)と呼ばれた藩主の屋敷で、直弼は誕生してから17歳になるまで、ここで過ごしたとされている。

井伊直弼生誕地

玄宮園の傍には「井伊直弼生誕地」の石碑が建つ。

花の生涯

ちなみに大河ドラマの第一作・「花の生涯」は、その井伊直弼が主人公だ。

城内には記念碑があるが、これこそ正真正銘のマニアックかも(笑)。筆者もさすがに放送までは見ていない。

近年では「龍馬伝」で松井範雄、「西郷どん」で佐野史郎が井伊直弼役を演じたが、筆者は「花燃ゆ」の高橋英樹がいかにもそれらしく見えて良かった(笑)。

屋形船

さて。かなりの長編になったので、「第一部」はここまでにしよう。

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