この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

築城400年。国宝にして世界遺産候補の彦根城
一時のブームがおさまったとはいえ、今でも「ひこにゃん」人気の影に埋もれたまま… そんなイメージが拭えない彦根城だが(笑)、実はこの城が築城400年、国宝にして世界遺産候補であることをご存知だろうか。
大河ドラマ「おんな城主直虎」で、菅田将暉が好演した勇猛果敢な初代藩主・井伊直政が、関ヶ原で負った傷の代償として手に入れた彦根城を、どこからどう語ればいいのか…
ずいぶん迷ったが、とりあえず戦国時代まで遡り、「彦根」がどういう場所であったかを知ることから始めるとしよう。
<目次>
なお、駐車場&車中泊事情とキャッスルロードについては、以下の別記事にまとめている。
プロローグは、佐和山城
もともと彦根を治める領主の居城は、写真手前の佐和山にあった。
このあたりは、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝で、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となってきたが、戦国時代には小谷城の浅井長政と、尾張から天下統一をめざして上洛を目論む織田信長が、近くの姉川で激突する。
その結果、小谷城は落城し、浅井長政は自刃。大河ドラマにもなった「浅井三姉妹の数奇な人生」はそこから始まるわけだが、その後の彦根は、信長と秀吉の下で落ち着きを取り戻す。
そして石田三成が城主の時代(1595~1600)に、それまで砦(とりで)程度だった佐和山城は、本格的な城郭として建て替えられ、五層の天守を構えるみごとな山城へと変貌を遂げた。
しかし、その名城も関ヶ原の戦い後に落城、代わって徳川四天王のひとり、井伊直政が領主となる。
彦根城の歴史
しかし直政は、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去。家督を継いだ井伊直継(なおかつ)が幼少であったため、家老の木俣守勝が亡き主君の遺志を継いで家康の指示を仰ぎ、翌年に彦根城の築城に着手する。
築城は「天下普請」とされ、徳川親藩の尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝いを命じられる、国家的事業であった。
「天下普請」は1606年(慶長11年)の天守落成で終わりを迎えるが、1616年(元和2年)から今度は彦根藩のみの手による増築が始まる。
すべての工事が完了したのは1622年(元和8年)。着工からすでに20年の歳月が流れていた。
実はこの間に、大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣した直孝が家督を継ぎ、続く夏の陣でも大功をあげて、父・直政に劣らぬ武将として名を挙げる。
その後直孝は、秀忠・家光・家綱の三代にわたる将軍の執政として幕府に貢献し、彦根藩はその恩賞として3度加増され、30万石の大大名となる。
この井伊家の大躍進には、龍潭寺に眠る直虎も喜んだに違いない(笑)。
彦根城の魅力は「城郭」
かような由緒を持つ彦根城は、地元のおばさんたちのウォーキングコースだけではなく、明治の廃城令と太平洋戦争の戦禍を免れ、「戦国時代の城郭」を現代に伝える「希少な史跡」という顔を持つ。
この写真はマップの★印の位置から撮影したものだが、手前が佐和口多門櫓で、天守の左に見えるのが天秤櫓。
ところで。彦根城に限らず戦国時代の城郭では、「最後の砦」となる「天守」は、そう簡単には見ることができない場所に建てられていた。
写真は彦根城とほぼ同年代の1607年(慶長12年)に築城が始まり、 1611年(慶長16年)に完成した国宝の松江城だが、1614年の大阪冬の陣で、家康が大阪城攻略に「大筒」を用いたことでも分かる通り、もうこの時代には「城外の近距離に見晴らしの良い場所」があれば、そこから狙われるという認識があったのは間違いない。
彦根城の見どころ
彦根城最大の見どころは、「牛蒡(ごぼう)積み」と呼ばれる石垣の上に築かれたこの三重三階の天守だ。京極高次が城主を務めた大津城から移築されたものともいわれ、国宝に指定されている。
ちなみに「牛蒡積み」とは、野面積みの一種で、胴長な石の小さい面を前面に出し、長細い面を奥にする積み方。見た目は悪いが堅固な石垣になるという。
さらに天守には3種の破風(はふ)様式が取り入れられ、二重目以上の窓には曲線の美しい華頭窓(かとうまど)が使われている。実は彦根城は現存12天守の中で最多の破風を誇っており、華頭窓の数も一番多い。
ただし、帰りはちょっとした試練が待っている(笑)。ここには大きなリュックを背負って行かないほうがいい。
いっぽうこちらは天秤櫓(てんびんやぐら)で、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれている。
井伊家の歴史書「井伊年譜」によれば、この櫓は秀吉が築城した長浜城の大手門を移築したものだという。
表門から石段を登ると、迫力ある石垣と立派な橋が見える「天秤櫓」の裏を通る。筆者が歩いているのは「大堀切(おおほりきり)」と呼ばれる道だが、実はこの上の橋を渡らなければ、本丸へは侵入できない作りになっている。
この時代の櫓(やぐら)は武器・食料の倉庫というより、防御や物見、あるいは攻撃のために建てられたもので、普段は家老の執務室を兼ねていた。
彦根城には、ほかに西の丸三重櫓・太鼓門櫓・そして前述した佐和口多聞櫓があるが、天秤櫓だけでなく、いずれも外部からの移築と見られている。
彦根藩15代藩主が、幕末の大老「井伊直弼」
手っ取り早く「井伊直弼」のプロフィールを紹介すると、14男で側室の腹から生まれたため、藩主になるなど「あり得ないはず」の境遇だったが、彦根藩の継承者が次々と亡くなり、奇跡が起きる。
彦根藩主となった直弼は、培ってきた豊かな教養を発揮し、藩政改革を推進する。その姿が中央の目に留まり、雄藩が台頭する中で衰えが顕著になった江戸幕府の救世主として、幕末の大老に抜擢された。
ここから先は、もうよくご存知だろう。
「楽々園」と呼ばれるこの建物は、かつて槻御殿(けやきごてん)と呼ばれた藩主の屋敷で、直弼は誕生してから17歳になるまで、ここで過ごしたとされている。
玄宮園の傍には「井伊直弼生誕地」の石碑が建つ。
ちなみに大河ドラマの第一作・「花の生涯」は、その井伊直弼が主人公だ。
城内には記念碑があるが、これこそ正真正銘のマニアックかも(笑)。筆者もさすがに放送までは見ていない。
近年では「龍馬伝」で松井範雄、「西郷どん」で佐野史郎が井伊直弼役を演じたが、筆者は「花燃ゆ」の高橋英樹がいかにもそれらしく見えて良かった(笑)。
さて。かなりの長編になったので、「第一部」はここまでにしよう。
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