上皇様は、熊野がお好き。
大河ドラマ50作目として、鳴り物入りでスタートした「平清盛」だったが、相変わらず低視聴率に喘いでいるようだ。
朝廷や武士が争った「保元の乱」を描いた6月3日の平均視聴率は、主な舞台の京都や神戸を含む関西地区でも僅か9.2%。NHK広報部によると、1994年1月以降、関西地区で10%を割り込んだのは初めてだという。
もっとも…
この時間帯は、テレビ朝日系でサッカーのワールドカップ(W杯)アジア最終予選・日本―オマーン戦を放送していたことも少なからず影響をしているだろう。うちだってその日は、夕方6時からのBS放送で清盛を見た。
平清盛の視聴率が上がらない理由を、専門家や視聴者が様々なサイトで面白おかしく書き立てているが、今は「録画時代」で、かつ同じ内容が3度も見れるのだから、視聴率そのものに疑問符がつく。
筆者個人は、龍馬伝同様面白く見ている。
そもそも視聴者の声というのは、往々にして「少数意見」の場合が多い。声の大きさや経歴に惑わされると、足場を失いやすくなる。
平安時代の空気が埃まみれなのは当然だし、洗濯機や水道設備のない時代の衣装が汚れているのも納得できる。ゆえにそれを追求する姿勢を筆者は高く評価していた。
ただそこまでディテイルにこだわるのなら、ストーリーも史実に忠実であって欲しいとは思う。
龍馬伝はそこが情けなかった…
脚本の下品さが、テーマと役者の努力に水をさしてように思えてならない。それが「江」にも引き継がれ、多くのご年配が大河を見捨てたというのも事実だろう。
さて、ずいぶん前置きが長くなってしまったが…
この週末は、ウミガメ撮影のリベンジに再び和歌山へ出かけてきた。
今回は白浜から熊野古道の中辺路を通り、三重県の丸山千枚田まで足を伸ばした。つまり熊野大社の前を往復したことで、平清盛を思い出したというわけである。
清盛が何度熊野詣に来ているのは不明のようだが、清盛の熊野詣にまつわるエピソードでもっとも有名なのが平治元年の出来事。昨日のドラマは、まさにそのエピローグにあたる。
清盛は熊野のご神木であるナギの木の枝を手折って左袖に挿し、熊野権現に勝利を祈願して引き返し、見事クーデターを鎮圧する。これを境に源氏は大きく後退し、いよいよ平家は全盛期を迎える。その後白河上皇初めての熊野詣が行われ、清盛もお供として同行している。
歴史を辿ると、歴代の上皇・法皇たちは頻繁に熊野詣を行っていたようだ。
記録によると、白河法皇は9回、鳥羽法皇は21回、そして後白河法皇にいたっては実に34回もの熊野行幸を行っている。
上皇・法皇たちが熊野詣を行うようになった理由は、権力と宗教の関係にある。古来より、天皇は伊勢神宮と密接な関係を持っており、その関係を権力の支えとしてきた。
上皇・法皇がこれに対抗するには、自らの権力の支えになる宗教との関係が不可欠であったが、天皇との対抗関係や伊勢神宮の唯一絶対性を考えると、別に信仰の拠りどころをつくったほうが好都合… そのため、京都から適度に距離が近い聖地・熊野三山が選ばれたと見られている。
ちなみに、上皇・法皇の熊野詣を明確に記したのは、『新古今和歌集』撰者の一人として知らている藤原定家。後鳥羽上皇から高く評価され、院の歌壇の中心的歌人となった人物である。
また後鳥羽上皇は、壇ノ浦で海に沈んだ清盛の孫に当たる安徳天皇の次の天皇。白河、鳥羽、後白河、そして安徳… 彼等はすべて清盛と深い関わりを持つ皇族で、平家という巨大な台風が消えた後に後鳥羽天皇が誕生し、先代から脈々と伝わる熊野までの道のりを記録に残したというのは、なんとも云えない因果だろう。
ドラマ平清盛は、これからようやく面白い時期にさしかかる。
大河ドラマは毎度そうなのだが、面白いところに辿り着くまでがちょっと長すぎるのでは…(笑)